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京都大原野で考えたこと

『所有からアクセス』なんて現代を象徴する言葉を耳にするようになって久しくなる。
昭和の終わりに社会人となった私の知る会社の事務所は、まだコンピューターなど登場せず、各人の机には電話一台と書類が机に山積みになっていたりした。今でもそんな事務所が残っているかもしれないが、最近の私の知る経営者はなるべく机には物を置かずノート型パソコンが一台だけ置いてある。

必要な情報はすべてそこから取り出せることは理解出来るが、言葉にならない違和感がある。危機管理のために書類でもデータを残すべきだということではなく私が思うのは感覚的なものである。
コンピューターの便利はわかるが必要以上のコンピューターへの依存が怖い。それによって失うものが怖い。

人間の古さや新しさではなく、紙の書類の持つ力を大切にしたいと思っている。ついでにレコードやカセット、紙の新聞、紙の書籍、紙の辞書、3Ⅾプリンターに負けずに白模型も残さなければならない。断捨離しても手元に万年筆は残したい。
お荷物のような大切なものがある。

いまだに駆け出し営業マンの頃、毎日書かされた手書きの日報を残している。下手くそなその字と上司の朱での加筆を見ると当時を思い出し、新鮮だった気持ちも思い出せる。

昨日は朝仕事を終えて京都大原野の放置竹林整備のNPOの手伝いに行く。
私より一回りも年上の先輩方が手作業で働く。その作業は熟練の匠の技と長年の経験による勘が必要である。そこに個人の感性も加わる。作業の終わった後には本来の竹林が姿を現し秋の爽やかな風が吹き渡る。その風に竹の喜ぶ声が運ばれて来る。
そこにいてそんなことを感じることの出来る感性を失ってはならないと思った。
そのためには何をしなければならないのか、何をしてはならないのかを考えた。


日本橋の飲み屋でも少しだけ考えた

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