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梅雨とマイカーム

三度目の引っ越しもリヤカーと後輩二人の手伝いで決行された。
学生最後の私の砦は西武池袋線練馬駅まで徒歩5分ほどのところだった。
左官屋さんのご一家、住み込みの若い職人さんを何人も住ませている大きなお宅の一室、空いた職人さん用の部屋を借してもらったのである。

最後の一年くらいは静かに生活してみたかった。
少しは真面目に授業も受けてみようとも思っていた。
お借りした二階のその部屋は南向き、それまで済んだ部屋の中で一番陽当たりが良かった。
大学四年、皆就職に必死になっていた。
それでも私たち合気道部の三人は最後の夏合宿までが幹部の任期だったのである。
我が合気道部だけが特殊だったのではなく、各運動部がそうだった。
そしてみな就職し、社会人へとなっていった。
おおらかな時代、といえばそれまでで、今と比較する方もいるが、どちらが良い悪いの議論はナンセンスだと思う。
生きる今しかないわけで、その中で努力するしかない。
どの時代でも大変さはたぶん同じであろうから。

実は、野望をもって大学から離れた練馬まで来たが、生活はさほど変わることは無かった。
時間を惜しむかのように毎晩酒を飲み、この時期は運動部の連中ばかりではなく同じ学部の連中ともよく飲んでいた。
合気道に情熱を傾けそれまで生きてきたことに悔いはなかったが、何か心の中に空洞のようなものがあるのを感じた。

練馬の下宿はちょうどよかった。
毎晩酔っ払って帰って本を読み続けた。
何でもよかった。
活字中毒はそれまでと変わらなかったが、それまでとは何かが変わったのを憶えている。

ゼネコンへの就職が決まっていた。
正式な採用通知はその下宿先に届き、大家さんが部屋への上り口の階段に置いてくれていた。
会社の名前を見てそのまま階段に座り込んで通知を見た。
そして、その時自身で出した結論を誤ったと感じていた。
酔いが醒めていった。

それがちょうどこの梅雨が終わる頃だったような気がする。
当時の私たちの中では早く就職が決まったほうで、のん気に残りの学生生活を送ればいいようなものの、何かを取り返すかのように本を読み、人と会い、酒を飲んだ。

私は今を悔やんでいるわけでは無い。
この『今』はその過去があったから成り立っている『今』だとわかっている。
『今』を否定はしたくなく、まだこの先の未来に続く『今』を信じたい。

(六畳一間、一畳ほどの自炊場、トイレは共同、家賃16,000円)


私の学生生活は昭和60年1985年3月に終わった。

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