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梅雨とコインランドリー

学生時代の洗濯には難儀した記憶がある。
昭和56年、1981年の春に大学生となり東京の江古田の住人になった。
入学して2年までの二年間は大家さんの離れの別棟を学生三人で借りていた。
合気道を始めたら毎日道着を洗濯しなくてはならなくなった。
もちろんコインランドリーである。
よくあるような恋話などそこには無く、空いた洗濯機を見つけ道着を放り込んで時間になると取りに行く、ただそれだけの場所であった。
自室で本を読んでいたのだが、私にはコインランドリーで過ごす時間が無駄に思えてしかたなかった。
そして、この梅雨時は普通の衣類でさえ乾きにくい、泣く泣く乾燥機に放り込み百円玉を何枚か入れた。

最初に住んだこの下宿での初めての一人での生活は思い出深い。
江古田駅南口改札を出て、左に曲がると突き当りに今は無い映画館『江古田文化』があり、そこを右に曲がり大変お世話になったカクテルバー『江古田コンパ』の角をまっすぐ池袋方面に向かって江古田文化通りを歩くと右手にその当時人気のあった『セイラーズ』があり、店先にカラフルなトレーナーを飾っていた。その少し先に私の下宿があった。
駅近で、大変至便ではあったものの、こと洗濯に関しては最悪条件だった。
部屋干しした道着を一着、気付けばカビで黒く変色し、泣く泣く廃棄処分しなければならなかった。
陽が入るのは午前中の一瞬だった。
そして二年間ののち、思い切ってこの下宿を去った。
(四畳半一間、半畳ほどの自炊場、トイレは共同、家賃15,000円)

不動産屋に払う手数料がもったいなく、大学学生課で紹介を受けていった先の大家さんは江古田駅北口の老年に近い開業医の方だった。
学生課の紹介状を持って医院まで行った。
先生とその奥様が待っていてくれたがその時様子が変だったのを今でも覚えている。
学生課長さんの紹介だから大丈夫でしょう、と奥さんは言い、先生も「そうしようか」と、変なことを言われて話は決まった。
それで次の日曜日に用務員さんからセブンスターワンカートンでリヤカーを借り、後輩二人に晩に酒を飲ませる条件で手伝わせて引っ越しを決行した。

江古田駅北口にある浅間神社の通りを挟んだ西隣にある木造のアパートだった。
古いがよく手入れ、掃除がされており、内廊下のたたきにホコリはなく気持ちの良い住空間だった。
部屋の広さは六畳と前の下宿より快適になった。
窓は広くそこから洗濯物も干せた。
当時の夏は今より朝夕は涼しかったように思う。
梅雨時のジメジメもさほど気にならなかった。
扇風機も無い部屋だったが、開けた窓辺で当たる夜風は気持ちよかった。
駅まで徒歩1分、朝の合気道の稽古にも大変便利だった。
しかし、たまに夜真っ直ぐ帰り、隣のコインランドリーで洗濯を済ませ、窓を開けて道着を干して、心地よい夜風に当たっていると、酔っ払った運動部の連中が通りから大声で「宮島、いるのは分かってるぞ、出てこい」と大声で酒飲みの誘いに来るのであった。ここは一年で出た。

誘いに来る運動部の連中が原因では無い。
実はそこはレディース専用のアパートだったのだ。
大家の医師ご夫妻は大学の紹介だし、宮島さんなら用心棒にいいね、という事だったらしい。
仕方なく一年間だけ、息を潜め、我慢して耐えた。
そして、しばらくすると物音で私の在室を確認すると、隣のOLが夕飯時に「作りすぎたから、、、」と言っておかずを運んできてくれるようになった。
断ったのだが、、一年で耐えきれず再びリヤカーを借りる決心をしたのであった。
(六畳一間、半畳ほどの自炊場、トイレは共同、家賃18,000円)


一年間なるべくここのトイレは使わなかった。

私の恋の相手は合気道と酒だったのである。

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