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母のついた嘘

今になって考えれば、決して嘘をつきたかったのではなかったんだと分かる。
どうしようもなかったんだ。
真面目な母だったから嘘をついた事実だけが残り、今もあの世で悔やんでいるのかも知れない。


幸せな時間なんて振り返った時にしか分からない。
今考えると本当に幸せな時間だった。

十八歳から二年間、魚市場で働いた。
今のような情報にあふれた時代ではなかった。
愛知の田舎の豊橋の精文館書店に毎日行って「俺は何をして生きていくんだ」とずっと考えていた。
どんな本を読んでもそれらしいことを書いてはあるが分かりはしない。最後は自分で作り、見つけていくことだと思いそれまで貯めた金を持って東京に行くことにした。

そう決めて東京に出ていくまでの数か月が私の幸せな時間だった。
重い持病を持った兄は静岡の病院に単身入院していた。父は日本にはいなかった。私は母と二人きりの時間を生涯でほんの数か月だけ過ごしたのである。

それまで毎朝四時には家を出た。私より早く起きて母は朝飯を作って送り出してくれた。昼過ぎに単車で帰った私は母と二人で昼飯を食った。それから少しだけ寝て魚市場の悪い先輩たちに誘われて飲みに行って帰りはいつも深夜だった。少しだけ布団にもぐりこみすぐに母の用意してくれた朝飯を食って市場に向かった。

そんなただれた生活と決別してほんの数か月の間、家に籠って勉強をしたのである。
その時初めて母が家で何をしているかを知った。
看護師長だった母は兄の病院からいつ呼出しがあるか分からないからと言い、ずっと家で内職をしていた。ただ家にいるわけにはいかないからと言い、一日働いても大した金にならない内職をしていた。子どもの使うカラフルなビニールの縄跳びに握り手をつけて、30本でひとまとめにするのである。近所の農家から運ばれる段ボールにどっさり入った大葉を10枚ひとくくりにして小さな輪ゴムで束ねるのである。私が遊びまわっている間、母はそんな内職をしていたのである。毎日時間を決めて私は母の手伝いをした。やらなくていい、と母には言われたが毎日母の手伝いをして、いろんな話をした。そして、大学への入学が決まった。

上京の日に母は一緒に行くと言う。断る理由も見つからず、豊橋駅で切符を買ってもらい新幹線に乗り込んだ。ずっと黙った車中だった。
東京駅に着いて母は「ここで帰る」と言う。
二人で八重洲口の地下街で中華料理屋に入った。時間は夕方に近い午後、まだ客はいなかった、すみっこの円卓に二人だけで掛け、早い夕食を済ませた。私は餃子とビールを頼んだ。
それまで毎日母とは話をしていた。別れると言っても今生の別れじゃない。取り立てて話をすることも無く、たぶん母の「体に気をつけるのよ、お酒を飲み過ぎたらだめよ」と、どこの母親でも口に出す言葉を私はふんふんと右から左に聞いていたことと思う。
改札で見送り、消えていく母の後ろ姿を今でも憶えている。
気の利いた話でもすればよかったのにと今でも後悔する。

そして今、その瞬間までの数か月が本当に幸せな母との時間だったと思うのである。

別れ際に言われた母の言葉だけをよく憶えている。
それが母の嘘である。
「兄ちゃんのことは気にしなくていいよ。自分の事だけ考えて生きていくのよ。」と言ったのである。
その先をどうするつもりだったのかは分からない。親は子より早く死んで行く。私に兄を押し付けたくなかったのは事実であろう。でもどうしようもなかったのだろう。私がまだ小さなころ兄の主治医から「お兄ちゃんは長生きできないから大事にしてあげてね」と言われたことがある。もちろん母も同じことを言い渡されていた。手元に置いて最期まで大切にしたかったんだろう。だから母のせいなんかじゃないと思っていた。十分すぎるくらい苦しみ続けて来たのだからそれで早く楽になって欲しいと思っていた。

時間が経ち、子を育てて十分親の気持ちはわかっていた。
その頃は母は子に戻りつつあった。
そんな時に言われたのである。
「兄ちゃんを頼んだからね。」と。

想像しなかった言葉であり、顛末であった。まさか母がアルツハイマーの病に侵されるなんて私の想定には全くなかった。
それから兄と生きて来たのである。

でも今は思う。
私がいつまでも頼りないから天の誰かが試練を与えてくれたんだと思う。
それは母じゃない、今母が安寧の時間を過ごす地に導いてくれた誰かに違いない。
今は母は幸せに日々を送っていることだろう。
この5月8日は母の93回目の生誕日、そして母の日がやって来る。
これまで何もしたことのないこの日に母の墓前に花を供えてみようと思う。


母の残していった裁縫箱をまだ手元に置いてあります。
時々引き出しを引き、母が捨てることが出来なかったボタンを眺めていると、あの頃の時間が戻って来るようです。
母と過ごした時間を思い出し、時々母の嘘を思い出して鼻の奥が殴られた時のようななんだかきな臭くささに満たされます。
幾つになっても母は母なんだなぁ、、と思います。


※今回の記事はNNさんの『母の日企画2023』に参加させていただき書いたものです。NNさんはちょうど同じ頃の子ども時代、三河の山野を駆け巡っていた同郷の方です。今回久しぶりに母のことを考える機会をいただき感謝しています。


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