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生きる上で考えねばならぬはなし

しばらく人と会うのを避けていた。
引きこもるわけではないのだが、誰にでもそんな時ってのはあるんじゃないかと思う。

思い起こせばもう九年も前、ちょうどこの頃である。
親父が最期を病床で闘っていた。
母は認知症のケアが上手くなく人格が変わってしまっていた。
兄は兄で悪い意味で環境と同化してしまい専門医でなければ手の付けれない状態になっていた。

それまで五年以上毎月二回の泊まりがけでの実家への突撃、掃除と料理、身辺整理に費やした時間は私の時間を削った。
疑問も持たず、家族だから当然だと思っていた、記憶は薄れつつある。
辛かったことだけが記憶に残っている。
父の最期を看取り、家族の整理のため介護休職して実家に帰った九年前の気持ちがこの時期になると甦る。
トラウマになっている。

空気が乾き、冷たくなっていく。
目に入る木々は赤黄と色付いていき秋への深まりを感じ、寒く暗い冬に向かうと辛く悲しく一人過ごした実家での日々を思い出す。
病院、介護施設、市役所の福祉課の人間、それ以外の人間とはほとんど話することは無かった。
前向きな話などありはしない。
そんな中で、なるようになれと半ば投げやりに半年も過ごすと、なんだか脳にも心にもダメージを与えてしまったような気がした。

本来ならば移ろいゆく自然を感じ心が清らかになっていく時期なのではないかと思うのだが、いまだに私はそうはならない。
いずれ薄らいでいくことなのであろう。

現在、身近にいる人たちの、家族への抱える苦悩を見ていて自身のそれに置き換えてしまう。

今、考えるべきですよ。
それはこうした方がいいですよ。

と自身の経験から他人の今後迎えてしまう不幸を取り除いてやりたい。
しかし各家庭、個々人によって違う環境がある。
一通りの苦労はしなければならないように初めから仕組まれているのだろうか。
だとしたら、なんともやるせない。

私は鬱ではないが、この時期にその方向に向かう人が多いのがよく分かる。
きっと私のような引き金をこの時期に持った人たちなのではないだろか。
いつもいろんな事を文章にしながら、自分の頭を整理している。
同じ人間として生まれて、その場所やちょっとした不幸な出来事で心や身体に重荷を背負うのはどうしてなんだろと子どもの頃から考えていた。
答えはまだ見つからない。
今はただ、それが人生だとしか言葉は出てこない。
でも同時に、そんな人生に屈することがないのが人間なんだとも思っている。

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