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さようならの秋

気がつけば暦は冬、まだ暦も晩秋なんて言葉も知らなかった。
夕暮れ、腹をすかしての帰り道、兄貴と「寒いなあ」と話した子どもの頃の思い出。

晩秋を知った頃、陽が落ちる速さを感じつつ「腹が減ったな」と友と話しながら家に向かった。
サッカーは向いていないと思いつつ、友と田の中の道を自転車で走った高校時代。

陽は落ちてしまい、かく汗は湯気となり立ち上り出す、晩秋など感じる余裕なく先輩に投げつけられ続けた。
合気道をやめたかった大学一年時代。

秋風じゃないなと感じつつ、大川の川風を頬に受け暗くなりかかった中之島公園を会社に向かった。
会社に戻るのが苦痛だった営業マン時代。

今は晩秋も初冬も感じる。
それだけ気持ちに、心に余裕があるのだろう。
季節を享受するにはそれなりの心の器や覚悟がいると思う。
父が死にかけ、母がアルツハイマーで、兄が寝たきりとなったそんな時に季節は関係なかった。
大晦日の前日に父は他界したから、ちょうどこの時期、一人愛知で闘っていた。
もう今はその時のことはあまり憶えていない。
そんなこともあったな、そんな感じである。

そして、今になり思い出すとあの時は晩秋から真冬にかけての出来事だったのだなと後から関連付けている。
渦中で人は季節を感じながら生きることは出来ないのであろうか。
時間を忘れて没頭するという言葉がある。
やはり季節は関係ないのであろうか。

でも多くの古人が今人が季節の中で句を詠み、歌を詠んだ。
その句は歌は悲しみ苦しみにあふれたものがたくさんある。

秋の雲 はかな心の人待ちに 涙流して ありと思いぬ

与謝野晶子が想う人を待ちわびている歌である。
こんな歌に出会うと自身の足らずを感じてしまう。
思いの深さも足らなければ、思いを季節で感じる余裕の足らなさを感じる。

晩秋に、切なさを感じ思いの足らなさを感じていた。
でも、すぐに冬がやって来て、すぐに春がやって来て、忘れてしまうのだろう。
ああ、都合のよい生き物なんだな、私は人間なんだなとつくづく思ってしまうのである。

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