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宿酔い(ふつかよい)の朝に

熱いコーヒーを胃袋に流し込み無理やり目を覚ませる。久しぶりの二日酔いに頭を抱える。かつて毎日味わったあの感覚である。仕事があり、付き合いがあり上司もいれば先輩、後輩たちもいた。馴染めぬ営業に、馴染みたくはなかった営業に、どぶどぶと浸かっていく自分が嫌だった。

この世に生を受けてこの世に生きることにはどんな意味があるのかと考えることが無駄だと分かっていても、考えねば押しつぶされてしまいそうな毎日だった。酒に逃げたつもりはなかったのだが傍から見ればそう見えたに違いない。でも若い私は昼間から酒におぼれたりすることは無かった。

仕事を片付け遅い時間から飲み出して、終電間際までひたすら杯を空けて倒れるようにして家に帰った。仕事を終えてケジメをつけるために酒を飲み、仕事を頭の中で整理するために酒を飲んだ。考えれば酒は私が無理矢理仕事をするための活力を生み出す燃料のようなものであった。腹一杯の酒は私の朝の胃袋で不完全燃焼のままふつふつと音を立てていた。

そして時間やタイミングはなんの遠慮もしてくれない。家族の介護や看病は容赦なく私をこの世から消え去らせる魔法のマントのように私をすっぽり包んでいった。介護休職の3か月間はきつかった。父を看取り、母と兄の終の棲家を探した。定石があるようで定石は無く、ある意味ゼネコンの営業に似ていた。途中からは開き直り、毎晩父の残していた高級ウイスキーを端から飲み干しながら作戦を立てて犯罪に近いようなことまで全てやった。

3か月後には目処が立ち、母と兄は血の繋がらない家族とも呼ぶことのできる血の通った介護者たちの居る最後の故郷に旅立って行った。こんな時の判断は素面でするものじゃないかも知れない。人一人の人生を変えてしまう判断をとてもじゃないが私一人じゃできなかった。朝残った酒は私の決断を後押しし、その決断は間違うことは無かった。

長く生きてきて、今は普通に二日酔いの朝を迎えることが出来る。頭が痛く、気持ちが悪く、酒の顔も見たくはない。でもそれは幸せな朝なのである。生きるに真剣な時の深酒は酔いを忘れさせ、寝ることも許さずに物を考えさせ朝を迎えさせる。そして、残った酒が勇気を与えてくれるのである。それはたいてい間違っていない判断である。いや、間違ったと思わないだけなのかも知れない。一度自分で決めたことを間違ったと考えていないだけかも知れない。

今ここまで生きてきて、酒をやめてしまおうと誓った朝を懐かしく思い出す。酒が私を育ててくれて、二日酔いが私の人生の指南役になっていたかも知れない。でも、酒は楽しく飲む方が良い。人を楽しませるために酒はこの世に生まれてきたのであろうから。ただ、本当の酒の楽しさを知るためには一度くらいは人生の峠を一升瓶を抱えて乗り切ることも必要かも知れない。本当に良いことと悪いことを自分で判断する力を養うことが出来るかも知れない。

あと何度、宿酔い(ふつかよい)を経験することが出来るだろうか。そんなことを考えることのできる年齢になり、酒がやっと自分の友達になってくれたような気がしている。

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