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JR西日本 大阪環状線鶴橋駅(その2) 猫のように歩いた日々

大阪環状線内のこの鶴橋という街を私はだいぶ好きかも知れない。

飲み屋を始める前には夜の帳の降りた歓楽の鶴橋しか知らなかった。
仕事を終えて帰る乗換え駅の鶴橋は心躍る場所だった。
乗り換え時間が15分以内であれば近鉄改札徒歩0ゼロ分の高坂書店に寄り必ず立ち読みをした。

小さな書店なのに『本の雑誌』を置いていた。この『本の雑誌』を私は創刊から読んでいた。椎名誠が好きで沢野ひとしの絵が好きだった。
田舎の高校生にこの『本の雑誌』は知らぬ世界を夢想させた。人と接することの嫌だったその当時の私にたくさんの個性あふれる人たちに会わせてくれた。創刊号からすべてを持っていたが鶴橋で立ち読みしなくなってから買わなくなったかもしれない。その頃から本を持っていることにこだわらなくなったかもしれない。

15分以上あれば酒を飲んで帰っていた。素面の時でも付き合いや接待で飲んだ帰りでも飲んで帰った。次の快速までと決めてビールを頼むのだが次の快速に乗れることは少なかった。

そんな夜の鶴橋と、夜の仕事を始めておさらばした。
阿倍野で飲み屋を始めて、鶴橋で食材の調達をしたのだ。鶴橋はコリアタウンで有名だが活気のあるのはそればかりではない。近鉄線に沿って奈良方面に向かって歩くと人がすれ違うのにも気を遣うような細い路地沿いに小さな商店が並ぶ。駅の近くは焼肉屋をはじめ、韓国食品店、民族衣装などがひしめき合う。そして少し歩いた先には精肉、青果、乾物、日用品、など、ありとあらゆる専門店が集まり、その先に魚市場があった。

もともとこの地域の商店街の成り立ちは戦後焼け野原になったあとに出来た闇市だったという。その当時から商売を続けている方が多く世代交代が上手くいかなかったのか、それともこんな個人商店の時代が終わってしまったからなのかにぎやかな市場にたどり着くまでの狭い狭いアーケードの通りに貼り付く店は営業日なのにシャッターが下りているところが多かった。

そんな暗い通りを通らずとも大通りからでも行けたのだが、いつもシャッター街を、暗く狭い道を、猫のように好んで歩いた。
その方が面白かった。その方が楽しかった。
土地勘が良く、頭の中のジャイロコンパスもかなり精度の高いものと思っていたが、何度も道を間違えた。

ある時、猫のあとを追い、店と店の間を抜けたら昼でも暗い通りに面した『蒸し豚屋』にたどり着いた。大阪の場末の飲み屋に必ずある『蒸し豚』、一般的にはコチュジャンベースの酢味噌で食べるが、私は好みで刻んだそれをいつも炙ってもらい、辛子醤油か塩で食べた。蒸し豚屋での茹で上がった蒸し豚はブロックに裁断され、組み合わせれば一頭の豚を想像できるようなものであった。

そこを知ってからはいつも人の歩かぬ『猫道』を抜けてたどり着いた。一般の客はなかなかそこまでやってこない。私は大きなカバンをいつも肩に背負っていたから商売人と思われていたのだろう。愛想の無いつっけんどんな応対でいつも蒸し豚を分けてもらっていた。
そこも古い通りだった。通りの古さと同様に数十年そんなスタイルで商売をやって来たのだろう。

猫道は他にも続いていた。気の利いた乾物屋さんでいつも変わった乾き物を見つけた。私の店には少ししか乾き物は置かなかったが、立ち飲みに乾物は付き物かも知れない。とりあえずや箸休めに気の利いた乾き物はあってもいいかも知れない。親の代からやっているというその乾物屋のおばちゃんは優しかった。

どの店のご主人も店頭に立つおばちゃんも優しかった。
昔は大阪の市場として地域の人達を支えてきたエリアなのだろう。
しかし、時代は変わり先を見据える商売人は自らここを去り、大きな波に太刀打ちいかずにやむを得ずシャッターを閉じた店も多かろう。
現在、観光エリアとして栄える鶴橋駅の直近、少し離れたなんとか頑張る鮮魚市場界隈、その間の何かが抜け落ちてしまったようなシャッター街に残る店が好きだった。

今でも入り組んだ路地を歩いたら思う店にはたどり着けないであろう。
猫に案内してもらった建屋の間の猫道を通らねばそこには行けないであろう。
夜に出会うことの無かったそんな鶴橋の町が私は好きなのである。

こじんまりした魚市場


優しかった乾物屋のおばちゃん


鶴橋のネコが連れて行ってくれた『蒸し豚屋』

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