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初秋の思い出

涼しさを通り越して肌寒い朝だった。
初秋を感じさせる乾いた空気は物悲しさとともに私の肌を通して昔あった様々を思い出させる。

ゼネコン時代に季節の良い秋の移動もあった。
9月1日の移動であったが引継ぎが出来ず二度目の京都営業所入りをしたのは10月に入っていた。
午前中に大阪支店で挨拶を済ませて昼一番に営業所に入った。
所内の挨拶もそこそこで直ぐに会議の席上に連れて行かれ、ひな壇の席を指定された。
これから着工の賃貸マンションの近隣対応の会議であった。
河原町四条、何が出て来るのか分からない近隣相手に責任者として、竣工までの一年半は土日も関係なかった。

そしてこの日は、所長は大阪支店で打合せだと、夕刻に近い午後大阪に向かった。
所長から、世話になってる町の助役の父上の通夜に行ってくれと言われていた。
夕方、通勤ラッシュの国道9号線を日本海に向いて会社の黒塗りのセドリックは走った。
日本海にほど近い現地に着いたのは午後8時になりかかっていたと思う。
翌朝も早い運転手さんには先に帰ってもらい、私は一人きりの焼香を済ませて山陰線で京都まで帰って来た。

当時の自宅は三重県に近い奈良県だった。
四条発午後10時半の特急に乗り遅れると自宅には帰れなかった。
その日も帰るのはあきらめ、京都駅から四条の事務所を通り過ぎて先斗町でタクシーを降りた。
居酒屋で一人酒を飲み、そのまま役所の人間の集まる祇園のクラブに行った。
そこが京都での営業時代の私の決まった店だった。

そこでは酒を飲む、歌を歌う、世間話をする、ただそれだけの場所であって俗人の想像するような、あらぬ金が流れたり、あり得ない工事発注の場所ではなかった。

ただ、知恵の貸し借りはあった。
市民、府民の生活に関わるような相談事ではずい分助けてもらったものである。

おおらかな社風の会社にいたと思ってはいたが、営業マンのタイプは2タイプに分かれていた。
一つはオレがオレが、と前面に出て、少しでも自分の手柄にするタイプ。
私はそれが出来なかった。
会社として高い利益率で受注出来ればいいじゃないか、と思っていた。
草食系営業マンじゃなかったのだが、社内で喧嘩をするのは間違っていると思っていた。
それが出来る男は社外ではそこまでしないくせに、社内で目を三角にして私にも噛みついて来た。

全ては経営の失敗による社内の雰囲気の劣化だと思っていた。
銀行が主導権を持ち、社内での競争をさせるような雰囲気を作っていった。
社内社外の良好な雰囲気を保ちながら社員の多くの手にかかり作り上げられてきた仕事の方が利益率は高かったように思う。

会社の利か、個人の利か。
企業人としてはどうだか知らないが、私はサラリーマンとしては落伍者だったのかも知れない。

そこまで我を押し通して給料が倍、十倍になるわけじゃない。
個人の性格、生まれや育ちに起因することだとも思った。

とにかく、サラリーマンには向かないと、ずっと思い続けてやって来たのであった。

天職なんてものに巡り会える人間を羨ましく思う。
死ぬまでのほんの一年でも半年でもいい。
これが天職と思える仕事を毎日やってみたい。

初秋の乾いた空気は毎年私にそんなことを思い出させてフッとため息を突かせるのである。

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