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私の人生の軌跡(設計事務所営業マン編) 大樹とは

『寄らば大樹の陰』、63年も生きているとその意味がよく分かります。ただ、わかっちゃいてもその大樹の陰に寄るか寄らぬかは本人次第ですね。
私にはそんな大樹の陰は向かぬ場所だったようです。
そして、会社組織は傍から見るのと中に入って見るのとでは大きく違いがあります。
多くのサラリーマンはそんなことを感じながら少なからずの妥協をし、我慢し、何かを削って生きるのだと思います。
一方、サラリーという報酬でわき目を振らすことなく個々の気持ちなどお構いなく前進させている経営者がいるのも事実だと思います。

かつて「企業は社会の公器である」と言葉を残した方の、受けた薫陶を残した方々と仕事をしたことがあります。会社に大きな利益をもたらす仕事じゃなかったのですが、当たり前のストレスはあったものの、爽やかに仕事を終えたことをよく憶えています。そんな夢のような仕事には生涯に数えるほどしか出会うことはありません。
もがき苦しみ、ストレスを溜め、おまけに家族の介護・看病は絶頂期に差しかかっていきました。

なんだかまだ多くは昇華、消化、消火できない部分があり、少しだけ触れてこの「私の人生の軌跡(設計事務所営業マン編)」を括りたいと思います。


先達の育てた大樹の陰に寄る者たち

私は勤務し出す以前からその設計事務所にはよく足を運んでいた。当時は事務所のなかを見渡すことのできる受付で、事務所からは笑い声も聞こえる明るくのどかな雰囲気が好きだった。世話になった課長から「たまに女の子たちに菓子でも買ってこいよ」と言われ、手土産をぶら下げていくことも少なくなかったから、普通以上に女性の皆さんは愛想がよかった。
夕方呼ばれ、そのまま受付の長椅子に座っていると帰り支度を済ませた設計課長に「お、行くぞ」と声をかけられて梅田の街に消えたのであった。

悲しいことに入社時に世話になった社長は長く在籍しなかった。リタイヤの年齢を迎えていたのである。その後を託された社長も親会社からの落下傘部隊の一員だった。そして会社の雰囲気は一変したのであった。

会社の中に入ってわかったことは、受付から見ていた社内の明るさおおらかさは、会社に「受注」に対する必死感が無いからであると気がついた。考えればわかることなのである。設備投資が続く限り、親会社から毎年相応の設計案件の仕事や施工管理の仕事が出てくる。それで十分社内は潤うのである。しかしながら、同じグループ内で金は回るだけなのである。

他流試合をして腕を磨き、外貨を稼いで本体に報いたいと言った先代の社長の気持ちがよく理解できた。続いて落下傘で降りてくるどの社長にも他流試合の決戦場へ出ていく勇気は無かったのである。

ゼネコン時代の先輩から、「設計の仕事を回してやる」と、中国地方の山あいの小都市まで連れていかれた。そこの医師会の会長がゼネコンが以前施工した大きなダムの診療所の先生だった。その地方都市で大きな発言力を持っていた。ある社会福祉法人が新設する老人ホーム建設の設計の入札段階だったのである。業者申し込みは過ぎていたのだが、その会長がそこの市長のところまで連れて行ってくれた。その市長もその建設に関わっていたのである。よくある話だが市長の息がかりの女性が理事長だったのである。

入札直前であったが、市長に「この宮島君は親戚の子だ。仕事をやらせてやってくれ」と、会長は言い、市長は「よく理解しました」とにこやかに話を済ませて大阪に帰って来た。翌日会社に電話があった。私とともに市長と会った社長宛であったのだが、社長は居留守を使い電話に出なかった。「じゃあ、一緒にいた若い営業マン」と電話を振ってきたのである。そこで昨日とは違うドスの利いた声で「君は何をしでかしているのか分かっているのか?」と言ってきた。私は「市長さんも今何をおっしゃっているか理解してますね。悪いがこれは録音してますからね」とレコーダーも付いていないのに嘘を返したら市長はすぐに電話を切った。たいていそんなものなのである。それ以上の信念や根性のある市長ならば今頃国を治めていてもおかしくないと思う。でも、この仕事はこの電話をきっかけに社長から「止めてくれ」と言われて辞退してしまった。
仕事を作るにはこんなことも私の知る建設業界にはままあることであった。

それから時間が経って、またゼネコン時代のだいぶ年上の先輩から声がかかった。その方は若くして中央官庁からゼネコンに移籍してきた人だった。でもつながりはずっと切れてはいなかった。その中央官庁のOBが関西某都市の首長だった。その首長の応援にこっそり動いているという。日本中の各都市でその中央官庁出身者が首長を務めている。その各首長の応援をゼネコンに移籍したその先輩がやっていたのであった。

そして、関西の悩み事は私の勤めた設計事務所の親会社が一番感じているだろうと、訪ねて来てくれたのであった。私はすぐに動き、関西西部の開発の遅れた土地の話を始めた。「わかった」と先輩が言ってからの行動は早かった。翌週にはその中央官庁の打合せで霞が関の本庁まで行っていた。親会社の担当の部長と某都市のセクション責任者とともに打合せを行ったのである。最後に審議官まで現れてその場で予算取りへの方針まで決まり、ある建設計画は決まったのである。
でも発注になった時には仕事にならなかった。指名はされたものの、話し合いを行うことができなかったからである。しかしながら、親会社には大きなプラスとなり良かったねと、事の顛末を迎えたのだが、私には不完全燃焼の事案だったのである。それからこの先輩にはよく呼び出されて新橋の居酒屋で二人で酒を飲んだ。そしてこの先輩も早く亡くなってしまった。奥様とは今も年賀状のやり取りだけしているが、お子さんのいない先輩には私が息子のように可愛かったと奥様からお聞きした。寂しく、しかし良い思い出として残っている。

何が原因なんだろうと考えた。アグレッシブさを感じない今の若い子らのような表面上だけの生き方の上手な人間が多かった。それはひとえに親の甘さであろうと今は思っている。鉄道という日々の稼ぎを365日してくれる「打ち出の小槌」を残した親に責任があると思っている。日々の稼ぎで悩み苦しむことは無く、同じ日々を繰り返していく、それが中心の世界だからじゃないかと思っている。

人間悩みや苦しみを忘れてしまうと、考えなくても良いことを考えてしまう。そして、異分子は余計な存在となってしまう。

大阪の地方都市の某大学の知人から最寄り駅からのバスを増発して欲しいと相談を受けた。途中に高齢化の進んだニュータウンもあり、利用者はたくさんいるはずだからとも聞き、決して悪い話ではないと思ってグループ会社のバス会社に行った。
鉄道会社のグループにバス会社があるのは、行政や地元住民から鉄道の支線の敷設や延伸の要請があればそれを行う義務が鉄道会社にはあるそうである。でもそれには時間も金もかかる、他にも簡単に済ますことのできない理由もあるであろう。そのための代替輸送にバス会社があるという。

私は親会社の役員もするそこの社長から生れて初めてのひどいの暴言を吐かれた。そして「お前はどこの会社にメシを食わせてもらっていると思っているんだ」とも言われた。
要は、学生は面倒くさいのである。夏休み、春休みと利用に波があり、駅前にどうやって停留所を作るんだと言われた。
「それを考えるのは貴方たちじゃないんですか。ダメなら他の鉄道のバス会社に行きますよ」と言ったら少し態度が変わった。でも翌週には社長の社有車に同席させられて大学の理事者まで出来ない理由を並べた資料を持って頭を下げに行った。

雇われ社長は可もなく不可もなく自分の任期だけ終わらせたいのである。創業者の考えた「夢や感動」なんてのは夢のまた夢の話なのである。

俺のいる世界じゃないとと思い、それから会社では息をひそめ、介護休職して父を看取り母をグループホームに送り、兄を障害者支援施設に入れた。この時ばかりは「寄らば大樹の陰」を肌で感じたのであった。

余談ではあるが、命を賭けて身体を張って仕事をする男たちには必ず優しさがある。でも、過度な暇な時間は人間に余計なことばかり考えさせる。
あるカウンセラー協会の人間に聞いた話であるが、非常に相談者の多いグループであった。私の懇意にしていた男は私が辞めてしばらく連絡を取らないうちに自ら命を絶っていた。そして、その数は少なくなかった。いろんなグループ会社で同じことがあった。

「経験」で済ますことは出来ないのであるが、いい経験をさせてもらったと思って、今私は元気に生きている。私は辞めて、この後飲み屋を始めた。
ずっと「いつかは」と思っていた飲み屋であった。でもこれも家族のアクシデントで1年半で終了させた。人生ってのは思うようにはいかないものである。


でもそんな、こんなの経験をして、私はまあまあ思うように生きています。
これで「私の人生の軌跡(設計事務所営業マン編)」は終わります。
そして「私の人生の軌跡」も終了します。まだまだ、しぶとく生きていくつもりですから正確には「半生の軌跡」ですね。
長くお付き合いいただいた皆さんには心から感謝します。
本当にありがとうございました。

なお、飲み屋時代のことは私のマガジン「飲み屋に恋する男のはなし」のなかの「阿倍野の飲み屋のものがたり」シリーズをご覧になってください。


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※マガジン「飲み屋に恋する男のはなし


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