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バナナ入りピーナッツバターサンドの思い出(太郎の青春 台北編)

それは太郎がまだ世の中を知らぬ、今から40年以上も前のことであった。
斜に構えて世の中に向き合い、大学なんぞにはなんとしても行かずに兄貴の面倒を看て生きて行こうと決心していた。

太郎は高校二年の春に一人で台湾まで行くことになった。
大学進学はしないと告げた担任教師から母に連絡が入ってのことだった。
就職希望、調理師希望を母は担任から聞いたのであった。
いずれは自分の中華料理の店を持ち、そこで兄貴を働かせる、そんな構想を太郎は信頼していた担任に話していた。
母は寝耳に水だった。
それを知った太郎の母は台湾の親友黄絢絢こうけんけんに太郎には内緒で相談したのである。

まだ1学期の途中に台湾行きの航空券を渡され、「学校を休んで行ってきなさい」と太郎は言われた。
そんな事になっているのを知らぬは太郎と、遠い中国大陸の果てでトンネルを掘っていた父親ばかりであった。

絢絢けんけんが看護師をしていたのには理由があった。
第二次大戦中、お父様は通訳として日本軍の幹部と共に東南アジアを転々とし、金も女も不自由しない贅沢な生活をしていたそうである。
そして、台湾に残るお母さまが一人身を粉にして働き絢絢けんけんたちを育てた。
だから、絢絢けんけんも兄弟姉妹のために早くから働いていたそうだ。

なおさら兄を思う太郎をほかって置けなかったのだろう。
そして、弟さんが慢性腎不全になり、台湾にまだ無かった透析の技術を習得するために大学病院から日本に派遣された。
もちろん志願してだ。
その習得先の病院で太郎の母と出会ったのである。

太郎の台北での2週間はアクティブであった。
絢絢けんけんがアクティブにストーリーを組み立てていた。
台北にある大学病院の看護師をしていた絢絢けんけんは友と知るツテすべてに声をかけていたようで日替わりでいろんな店に行き、いろんなところに案内された。

ある日、朝から絢絢けんけんと屋台で油條をミルクスープに付けながら食べていると四角く包んだ昼食を渡された。
「今日は山の上まで行ってきなさい。」と絢絢けんけん手づくりのサンドイッチを渡されたのである。
生涯独身を貫いた絢絢けんけんが料理をするところを太郎は一度も見たことが無い。
このサンドイッチが前にも後にも一度切りの手料理かも知れない。

台北駅前には絢絢けんけんの同僚のレントゲン技師が待ってくれていた。
絢絢けんけんより若い彼は台湾の原住民族の族長の息子で、太郎に現地を案内してくれたのである。
長くバスに乗り、長く山道を揺られ車酔いしていた太郎は族長の息子に言われるままに昼食のサンドイッチに手を付けた。

生まれて初めての甘いサンドイッチだったのである。
食パンにはピーナッツバターが塗られ、スライスしたバナナが挟んであった。
甘いサンドイッチは太郎の車酔いをその時だけごまかしてくれた。

キョーレツな車酔いはバスの着いた先の貴重な体験の記憶のほとんどを失わせている。
憶えているのは顔まで刺青を入れたお婆さんたちの笑顔と、妙に車酔いに心地よいバナナ入りピーナッツバターサンドばかりである。
帰りには絢絢けんけんの弟さん夫婦が出迎えてくれており、途中の温泉に寄り食材を持ち込んでの辛い鍋をご馳走になったがボンヤリした記憶しかない。
温泉場の名前も憶えていない。

まだ紅顔の美少年だった太郎は台湾の母の友人全員から大学進学を勧められ日本に戻った。
まだもやもやした気持ちの中、高校を卒業して豊橋の魚市場で働き出したのである。

食べる物に既成概念を持たず、好き嫌いなく何でも食べる太郎であったが、男は甘い物は不得手であると思いこませている節があった。
それを何年も後に氷解させていったのがこの絢絢けんけんが作ってくれたバナナ入りピーナッツバターサンドなのである。

全ての食べ物には思い出があり全ての食べ物には過去の感情が詰まっている。
『食べる』、『人に食べさせる』その作業は人に記憶を反芻させる。
『食』の大切さは健全な肉体を作り上げることばかりではなく、健全な精神を育て上げていくことにもある。

だから太郎は漫然とものを食べることを好まないのである。

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