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JR西日本大阪環状線 西九条駅

その頃はポケット版の地図をカバンに入れていつも持ち歩いていた。
そしてその時はなぜか最寄りではない西九条駅から歩いていた。

当時『大阪厚生年金病院』と言った。
グーグルマップで探すがすぐに見つからず焦った。
今よりずっと記憶力の良かったその頃の記憶があいまいになっているのかと、一瞬アルツハイマー症を患った母ハルヱを思い出していた。
でもひょっとしてと、よく目を凝らすと『JCHO大阪病院』と記憶の場所にそれはあった。
2014年、関係法により財団法人厚生年金事業振興団から独立行政法人地域医療機能推進機構に運営が変わったようである。
蛇足ではあるがこの推進機構の初代理事長はコロナ会見の安倍首相の横にいた尾身茂だという。まったく知らなかった。

同じゼネコンの土木職員が緊急入院して私がしばらく身の回りの世話をしたのだ。
やったことは鮮明に記憶に残っているのだが、その先輩の名前は失念してしまった。

32年も前の事、息子が生まれた年である。当時勤めていたゼネコンで営業を始めたばかりの頃、九州東部で京都の大学が大学新設工事を水面下で計画していた。公共用地を利用して大々的に造成しキャンパスの新設の準備をしていた。そのために九州支店の優秀な土木職員を一人その大学に出向させて大学職員として働いてもらっていた。その職員が大阪での打ち合わせの最中倒れたのである。そのまま救急搬送されたのが大阪厚生年金病院だったのである。
脳溢血、頭蓋を外しての手術は成功したのだが、ご家族はもちろん九州にいる。もう理由は忘れてしまったがすぐに大阪まで出てこれなかったのである。
奥さんの出てくる日までの一週間の病院への定期訪問が私の仕事になったのである。

すぐにお元気になったように記憶する。
着替えを持って行ったり、話し相手になったりとその程度の使い走りではあったが、初めての土地である大阪での不安の日々を私の能天気な笑顔を見てずいぶん癒されたのではないだろうか。
奥さんがやって来た。身体の小さな可愛らしい奥さんに何度も頭を下げられたのが記憶に残っている。その後、その先輩は九州に帰り、それからしばらくしてアジアを代表するユニバーサルなその大学は竣工した。

竣工時にその先輩はもう大学から離れている。土木工事が終われば後は派手な建築工事に引き継がれる。無しでは建築は成り立たないのだが土木職員の存在は地味である。しばらく年賀状が届いていたが、私の重なった転居のためにいつしか途絶えてしまった。お元気になった後に雲仙普賢岳の火砕流堆積物の処理をAIを駆使した重機で行っていると連絡をもらったのが嬉しかった。
土木技術の進んだ、優秀な職員の多い会社だった。

ストレートに結びつかないこんな事が西九条駅の私の思い出である。
この西九条駅がUSJユニバーサルスタジオジャパンへの乗換駅である。
沿線工場への貨物輸送や通勤路線であった桜島線は様変わりしていく。
ターミナル桜島駅までのこの路線は途中にユニバーサルシティ駅が開業して「JRゆめ咲線」と変わった。
そしてこの先大阪万博、大阪IRに向けて夢洲(ゆめしま)まで延伸していく。私にはまったく夢を感じさせることの無い『夢咲く島』に変わっていくようである。

もう10年近く経つであろうか、桜島駅からバスに乗り換え、この夢洲(ゆめしま)の手前の舞洲(まいしま)までプロレスの観戦に行った。
ハルク・ホーガンがやって来たのだ。
私の記憶にある生のプロレスは新日本プロレス全盛時代、現在の練馬文化センターがまだ空地だった頃に新日の野外興業があり、合気道部の安田先輩に誘われみんなでリング・会場設営、警備のアルバイトに行ったことである。設営では前座の若手レスラーのお兄さんに勧誘を受けたのが懐かしい。ハルク・ホーガンはいなかったがアントニオ猪木はテレビでも実物でもカッコよかった。

たぶんそれ以来ぶりのプロレスの生観戦だった。私より7歳年上のホーガンがリングで吠えると会場はファンの声援で震撼し、一気に場内の温度が上がったように思った。
今の私くらいの年齢のホーガンである。私はホーガンに求めていたのだろう。人生は無限ではないのだが現役で生きることは個々の決めることである。そんなことをホーガンに身体で語って欲しかったんだと思う。才能以上の努力があるに違い「ああ、俺は何をしているんだと」自身を奮い立てて帰路に着いたのである。

これもまたJR大阪環状線西九条駅とはさほど関係ない話である。
こんな話ばかりで大阪環状線をもうすぐ一周しようとしている。

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