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この先の世のスタイル

飲み屋になぜ私がこだわるか、『依存症』だから、ではない。
実は飲まなくとも平気で毎日を過ごすことが出来る。
サラリーマンをしてきた。その中、酒席で決め事が成ることもあれば、決め事の礼が酒席であることもあった。酒の力で場を和ませて切り拓かねばならない難解な話もあった。人を元気づける場所が場末の居酒屋であったり、ともに喜びを分かち合うのがガード下の焼き鳥屋であったりもした。

飲食店舗がニューコロナの発生源のような認識を持たれている方もいるようだが、真の発生源はモラルの欠如である。一部飲酒が過ぎて、モラルを破壊する輩が酒飲みの中にいる事実は否めない、でもそんな男女は日中の電車内にも街を歩いていてもたくさん見かける。
飲食店舗の利用制限のデメリットのことはあまり語られないがそれも考えてもらいたいものである。
少し前に、大学の同期生の映画監督の言葉をここで引用した。

以前、ボスニアヘルツェゴビナのサラエボ映画祭で、映画祭のボランティアの男性と交わした会話を思い出す。「内戦終了からまだ数年のこの街で、なぜ映画祭を?」と尋ねると、彼は「水、食料、電気の次に、何が欲しい、と市民に尋ねると、みな文化を! と答えたんだ」と話してくれました。状況は違うけど、少しだけ気持ちがわかるような気がしました。

そんな時期がやって来ているような気がして仕方がない。
ニューコロナで亡くなった方、仕事を失った方、苦労の現在進行形の方がたくさんいらっしゃるから大きな声では言わないが、飲み屋は悪いことばかりでは無いように思う。
何度も言ってきたことではあるが、あらためてそう思う。
ニューコロナは日進月歩という陳腐な言葉のごとく走り続けた世の中にエンジンブレーキをかけてくれた。モノを考える時間を作ってくれた。
本当の意味での『働き方改革』が進行し出した業種もある。デジタル化も絡み合ってカーボンニュートラル2050年という共通の目標に向けて各業界は多くの意味で変わらざるを得ないであろうなか、ニューコロナという力技で当たり前でなかったことが当たり前になって行く。万人に受け入れられる事はすぐには無いかも知れないが、きっと皆が良かったと言える時期が来ると思うし、来るようにしないといけないと思う。

昔々、夜の繁華街に『のぞき部屋』なるスポットがあった。興味半分に学生時代合気道部の仲間たち、他大学の連中と歌舞伎町のそれに行った。半畳ほどの異空間がそこにはあった。中心に向かう一壁面からその向こうの女性と接するのである。マジックミラー越しの向こう側はオープンなのである。今考えても不思議な空間であった。

しばらくの間、期間限定でそんな飲み屋があってもいいなぁと思った。肩触れ合ってのあの空間を忌み嫌わねばならない今だからこそ極端に逆のこんなスタイルの飲み屋があったら安心感は保てるだろう。中心で調理・接客する店主とは直接話できる。その会話は全てオープンで全室の館内放送に流れる。静かに呑みたければスイッチをOFFにすればよい。マスク不要の飲食店舗である。しばらくの間当たり前でなかった事を当たり前にして呑む酒があってもいいように思う。政府公認の『公式お一人様酒場』である。
しかし、こんなのは未来永劫は続かないし、続けるもんじゃないと思う。
しばらくの期間限定『お一人様酒場』である。
『のぞき部屋』のように時代に残る文化として成立させ、あんな事があったなぁ、なんて言える心に余裕を持てる未来が来てもいいような気がする。

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これもずいぶん以前に息子が描いた絵です。
ラテン語で『貧者はよく、そして人を信じきって笑う』
という意味だそうです。

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