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なんばを歩き思い出す

私は流れ着き今大阪で生活しているだけで大阪人ではない。いつもよそ者の目で大阪を見ていると思う。昨日は仕事が休みで久しぶりに早い午後ではない、ビジネス街難波のもう一つの顔が動き出す夕方の難波で人に会った。
連日のニュースで聞くように『関西国際空港からの入国者数は大幅に増加し、2020 年 3 月以来最高となっている』というそのままに難波ではひと頃目にすることのなかったインバウンドの旅行者の塊が闊歩していた。

いつも思うが、大阪人ではない私の目からこの難波が一番大阪らしい。ハードとしての街、道頓堀や吉本あたり、そこに繋がる各筋、各通りはいつも元気よく、小さな様々な店が肩を並べている。有名チェーン店の姿の無いそんな裏筋、裏通りがある難波を好ましく思う。そしてソフトとしての人も梅田あたりとは違うように思う。人懐っこさと優しさを感じさせるのであるが、あんがいそれもこの街、ハードが作り出すのであって、それが相まって難波の雰囲気を作っているのかも知れない。

昭和50年代の最後に東京の江古田にいた。大学生をしていた。大学には真面目に毎日足を向けたが授業にはあまり出ることは無く、合気道の稽古に真剣であった。そして稽古が終わるとそのまま江古田の街の飲み屋に直行していた。行けば誰か知った顔があった。他の運動部の連中と盛り上がることもあったが、在籍した人文学部の同級生と熱く将来を語ることもあった。そして必ずお開きは日付の変わるくらいの店の閉店時間だった。大した金も待たずに酒ばかり飲み腹の減ったその時間によくおにぎり屋に寄って帰った。当時セブンイレブンが大学近くに一軒あったように記憶するが駅前には無かったと思う。それ以前にコンビニを常用する習慣がまだ無かったと思う。

西武池袋線江古田駅南口に『江古田文化』という名画座があり、通りを挟んだ向かい側に『江古田コンパ』というスタンドバーがある。ここはまだ営業している。マスターの原さんからは『合気道技法』の初版本を頂いた。ママの長島さんには『富貴そば』でカレーうどんをご馳走になり、隣の『喫茶ハマ』で高いコーヒーをご馳走になった。お二人ともかなり高齢であろうが「元気にやってますよ」と、合気道部の後輩が少し前に写真を送ってくれた。とにかく懐かしい店なのである。そして、この『江古田コンパ』の隣におにぎり屋はあったのである。名も忘れてしまったが、明け方近くまでやっていたと思う。当時のこと、どれもが数十円の単価だったのだと思う。梅、鮭、おかか、炊き込みなど小さな店の小さなショーウインドーにはいつも幸せが明かりに照らされて並んでいるのであった。いつも二つか三つ買い、下宿まで歩きながら食べたのを思い出す。下宿まで徒歩5分だった。

言葉も街並みも違うのだが、難波を歩くと時々江古田を思い出す。そして酔って帰る途中におにぎりが無性に食べたくなる事があるのはこの江古田のおにぎり屋が原体験としてあるのかも知れない。
しかし、今そんなおにぎり屋を見かけることは無い。時代の流れと共に淘汰されてしまったのであろうが日本人である私が思うに無くしてはいけないものであったように思う。

久しぶりに歩いた夜の難波は私の知る難波の雰囲気とは違った。黒い難波となっていた。興味が無いので流行色など知らないのだが、これだけ黒い服装ばかりを目にするとこの先の何かを暗示するようで不安になるのは私だけなのであろうか。

なんだか怖くなりコンビニに駆け込みおにぎりを一つ買って帰りの電車に乗り込み難波から離れた。


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