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JR西日本 大阪環状線桜ノ宮駅

大阪駅から環状線に乗り、桜ノ宮さくらのみや駅に停車する直前に渡る川がある。
大川おおかわ』である。
これからの時期大川沿いの桜は咲き乱れ環状線の車窓を飾る景色は乗客の心を和ませる。

私の知る頃から変わり映えのしない古いホームと駅舎の桜ノ宮駅である。
余談であるがこの桜ノ宮駅もたぶんそうだったと思うが、旧国鉄時代から残っている古いホームの屋根を支える支柱にH型のレールが使われているのをご存じだろうか。
今ではもう出来ない(使用済みのレールで耐久性に難度があるため)と人から聞きいたがJRの古いホームを注意して見ていただくとまだ残っている。

この大川を渡る橋の名は『源八橋げんぱちばし』という。その昔、大阪の各所にあった渡し(船)である源八の渡しげんぱちのわたしに由来しているという。

源八をわたりて梅のあるじかな

この句を詠んだ与謝蕪村はこの大川を北に遡った毛馬けまのお人である。

源八橋を渡り大川沿いに南下する。大阪営林局の事務所の前を桜の樹々に沿って南下する。
すると帝国ホテルの後ろ側に出る。そのあたり一帯をOAP(大阪アメニティパーク)という。もとは三菱金属の工場用地、その昔は大阪造幣局のものであった。三菱金属(今の三菱マテリアル)が払い下げを受けたのである。

帝国ホテル大阪、タワーマンション、事務所ビルで構成された地区である。
この事務所ビルの二十数階あたりで2年間仕事をしていた。ゼネコンを辞めて三菱系の橋梁のコンクリートの桁を作る会社に誘われて勤めていたのである。建築を伸ばしたいから来て欲しいと家まで営業部長がやって来た。
給料は増えてのどかな会社であったのだが、そののどかさがゆえ定年まで勤める自信が無くて2年で辞めてしまった。

辞める前に一つ建築工事を請け負った。京都市内南部のどなたもご存じの大きなお寺の前で高齢者のグループホームの建設工事を請け負ったのである。ゼネコン時代から付き合いのそのオーナーはとても変わった人だった。塾の経営者、酒を一滴も飲まない。夜どんな時間でも気になる事があると私に電話してきた。(それを受けてた私もおかしいかも、、)

「やってくれ。」「わかりました。」と請けて帰って来たものの、会社はコンクリートの技術ならば世界の先駆けを行くが、いかんせん建築部は名ばかりで鉄筋コンクリートの建物を作る技術を持ち合わせていなかった。(そこまで含めてが私の乞われた入社理由だったのだが、ずっと京都府下の橋梁の営業を専任でやらされていた。)

そこで私がいたゼネコンに話をして共同企業体(JV)でやらせてもらった。仕事は無事竣工し、一人行かせた若い建築職員も勉強できてよかったのだがこの変わったオーナーが地元住民とトラブルを起こしたのである。
着工前に決め事をし協定書まで取り交わしていた事柄を反故ほごしてしまったのだ。

地元代表が話して通じるようなオーナーではなく、地元から訴えられ、施工者も被告として裁判所に呼ばれた。でも、その時期に私がもといた会社ではリストラが始まっており関係した建築職員は一人も残っていなかったのだ。そして総務部長から電話が入り、「宮島すまんが行ってくれ。」と一万円の日当で京都地方裁判所まで行った。オーナーは来なかった。私一人被告席に立ったのである。最終的には施工業者に非は無いとなったのだが生まれて初めてで最後の被告席(たぶん)は気分のいいものではなかった。日当を持って来た総務部の元後輩と共に一万円は先斗町に寄付して帰った。


長くなり過ぎるのでまた日を改めようと思う。
この地名のもとの『櫻宮神社』が私が2年間いたビルの対岸にあった。天照大神を祀る由緒ある神社である。
事務所からの見晴らしは良かった。東側が窓、すぐ下に大川があり続く家々の行き着く先には生駒の山々が連なった。
仕事に悩み一人歩く大川沿いの川風はいつも優しかった。
大阪は水の都、かつて廻船の行き来した姿を想像して缶ビール片手に大川を眺めたのが懐かしい。
大阪を代表する繁華街の京橋まで歩いて行けたがこの桜ノ宮にも気の利いた飲み屋はあった。
仕事をし、酒を飲み、毎日がそれの繰り返しの日々であった。

大阪環状線桜ノ宮駅、取り立てて特徴もなく賑わうのは少し先の造幣局の桜の通り抜けの時期くらいである。
しかし、私には思い出深い忘れることの出来ない駅なのである。

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