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私の人生の軌跡(設計事務所営業マン編) 仕事を創る

どんな業界でも同じでしょう。「仕事を創り出す」、こんなに難しいことはありません。
ゼネコンで営業をしていてもよくそう思いました。
潤沢な資金を持ち合わせて長期の計画にのせて毎年建物や設備の新築・更新を行えるような大会社には必ずそれを担当する「資財課」と呼ばれるようなセクションがありました。そんな部署と会社ぐるみでの付き合いをして御用聞きのような営業をすれば仕事は必ずやってきます。そんなのも営業でしょう。でも本当の営業は、「無」から「有」を生み出すものだと思ってやってきました。

縁があり私は設計事務所で営業を行うようになりますが、その会社に世話になる前には設計事務所ってのはそんな「無」から「有」を生み出す世界なんだと思っていました。そこは非常に難しく、高度な思想と発想・技術が織りなす世界があるんだろうと思っていました。

全てに共通すると思います。そのスタートに立った人間ってのは何を考えていたのでしょうか。
若き設計者は夢を持って、独学であったり、尊敬する師につき死にもの狂いで修業してきたに違いありません。でも余るほど幸せな生まれで、金の苦労を知る必要のない人間以外、皆、どこかで金の必要性を感じることでしょう。それは当たり前の話です。全てのスタートは金ですから。

仕事としての設計には経営手腕も必要です。ゼネコンの仕事と同じように設計には意匠・構造・設備など分野ごとに分かれ、それらをまとめて一つに仕上げていかなければなりません。ですから個人経営の設計事務所では得意分野以外は協力業者に任せたり、気心の知れた設計仲間との協業で行ったりします。そして大きな設計事務所では各分野の資格を持った専門職をそろえています。

そんな組織を作り上げることは簡単ではありません。
多くの設計事務所は夢と志、勇気を持った若者がスタートさせたようです。いいタイミングだったのです。高度経済成長期の波に乗って数ある仕事をこなしながら、失敗も修業のうちでそのうち誰もが認める設計士となり、時間とともに設計事務所は体を成していくのです。
そして、振り返ってみる時にはそのうちの良いところだけ、苦労をした部分だけを取り上げて美談として残っていくのでしょう。

もう15年も前のことです。私は大阪私鉄沿いのある駅ビルにある中央官庁の出先の事務所に用事があって出向きました。そこに本社を置くその私鉄は延伸するその先に「街づくり」のコンペの計画をしていました。どうもその件だったのでしょう。エレベーターに乗り合わせたのはその私鉄の制服を着た事業責任者らしき男、もう一人は大阪出身の有名な設計士でした。その設計士は部外者の私がいるにも関わらず「君、僕に審査委員長をやれということは、僕の事務所はコンペに参加できないということなんだよ!」と語気を荒げて言いました。責任者らしき男は「だからそれなりの、、」で二人は降りてしまったのですが、ああ、これが本来の設計者の姿であって、事務所を司る男の姿なんだなと、思いました。そしてなんとも大阪っぽいなとも「世界の」を冠にするその男の事を思いました。


事務所に対する経営者の思い

私は大阪の私鉄の設計事務所に拾われ15年間営業マンとしてその事務所に在籍した。ゼネコン時代からの付き合いがあり、親会社の私鉄が事業主、その設計事務所の設計・監理のマンション事業の施工に当たり、私は着工前と施工中の1年半ほどを現場に張り付き地元対応をしたのである。
そこの設計課長が実に人間味に溢れた人だった。休みや時間に関係なく現場に行く私をずいぶんかわいがってくれたのである。新潟県の工業高校出身の一回り年上の方だった。現場で打合せが遅くなると、いつも梅田でともに時間を過ごした。そして請負者である私が支払いをしなければならないのにずいぶん酒を飲ませてもらったのである。そして会社が傾くと「うちに来ないか?」と誘ってもらうようになり、会社に営業マンがいないから来てくれと言うのであった。
それから1年ほどして私はゼネコンを辞めて一時期橋梁の会社に勤めたが、そこを辞めて設計事務所の営業マンとなった。

その設計事務所の入社当日の朝、応接室で社長に言われた言葉をよく憶えている。
「会社を変えていって欲しい」と。
日本で一番大きな設計事務所と設立年は同じである。
どちらも同じ設計事務所でありながら、旧財閥グループの建築部出身の某社と大阪私鉄の設計部門であった私が世話になった会社は半世紀のうちに大きな差が開いてしまっていた。

もともとは鉄道と付帯建築物の設計の会社であったが、社長は一般建築の設計もして技術力を高め、親である鉄道会社に報いたいと考えていたのである。
「インハウスコンサルタント」と聞こえは良い建設技術の社内相談室から脱却したい考えを持っていたのであった。
そして、社員自身や家族が誇りを持てる、夢を持てる仕事を取ってきて欲しいと私に言ったのである。

社長の最後の言葉に私は心を動かされ、それから15年間、設計受注のための営業活動を行ったのである。


先日、世話になった設計課長の10回忌がありました。もといた設計会社の仲間と墓参りをし、駅前で一杯飲んで帰っただけなのですが、変わらぬ時間が流れ、久しぶりの連中と痛飲しました。設計課長は仕事のし過ぎと酒の飲みすぎで60代で他界しました。どうしてそこまで飲まなければならなかったのか、わからないようでわかります。

仕事と酒を直結してはいけないのでしょうが、私の場合は仕事と酒の場が一緒になっていたこともあって酒との付き合いは非常に深いものでした。その設計課長も同じです。多くは語らず。会社でも家に帰っても語れぬ何かを抱え、酒で昇華しようと毎晩浴びるほど飲んで帰ったものです。
私はまだ夢を捨てていませんでした。

でも、夢と理想、現実の一致はそんなに簡単なものではありませんでした。


※前回記事です。


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