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今、考えること

なんだか寒いような、暖かいような、なんとも中途半端な時期である。でも、こんな季節が好きである。
北国であれば残雪もあり、冬の残りを感ずることも出来ようが、私の生まれた太平洋岸である愛知県の東三河地方もここ大阪も冬の残りという言葉は似合わない、似合うのは歩み寄る春である。
まだ朝夕は薄ら寒かったこんな時期、大学に入る前に働いていた魚市場ではいつも防寒着を着て単車で家を出た。でも明け方前には暑くなり防寒着は脱ぎ捨ててトレーナー一枚で働いた。
その頃は肉体での労働で生を感じていた。金を稼ぐ術はそれしか無いと思い詰めていた。たぶん生涯働くことの出来ない兄を見ていて私が働かなくてはならないとも思っていた。

今、障害者介護のための施設で働く。そこで知ったのは、当たり前ではあるが私達健常者と呼ばれる人間と同様にさまざまな人達がいることであった。
それはさまざまな障害があるということではない。彼等には私達と同様に様々な人生がある。そこではぐくまれた、はぐくまれてしまって変えようの無い性格がある。性善説の私には温室でそだった兄を中心に障害者を見ていたから、障害者に悪い人間など一人もいないと思っていた。しかし、そんなことはなかった。私達と同じなのである。良い奴も悪い奴もいることを知った。

そんな性格とともに併せ持つ障害を抱えた彼等が今の社会で生きづらいのは当たり前であり、彼等とともに生きる人間も大変なのは当たり前である。
そして障害者施設が彼等の生きる場所、生きがいを見つける場所であっても、家族の一時凌ぎのレスパイトの場所であっても構わない。受け入れる施設の人間にはそれなりの覚悟が必要である。
ただ、生きていればいい、生きて帰せばそれでいいと驚くような考えを持つ責任者も実は少なく無い。そんな片付け仕事にはしてはならない場所なのである。

「見守り」と言う都合のいい言葉がよく使われる。非常に重宝な言葉で、ただ見ているだけであっても「見守り」であり、転びそうな時に「危ないよ」と声をかけてやっても「見守り」である。そこに感情・気持ちが入るだけでその見守りの意味は変わる。親が自分の子を見守る気持ちが必要なのだと思う。一時が万事、全てにそんな気持ちが必要なのだと思う。

今の福祉の世界の制度設計に間違いがあると言う。ならばこれを変えて働く職員達のモチベーションを上げなければならない。知らねばならぬ事、勉強しなければならない事はたくさんある。それを行い介護者の質を上げることが利用者である障害者の幸せの質を上げることに繋がると思う。
そのためにはまず介護者の生活の質を上げなければならないだろう。
理想と現実、夢と現があるのは分かる。しかしながら理想と夢で終わらせてはならない前に進まぬ現実がある。
そんな現実を感じ、なんとも出来ぬ自身がいるのである。
何をしているのだと自身の背を押しても、何をしているのだと自身の尻を叩こうともなんとも出来ぬ自身がいるのである。

令和5年3月、今私が考えることである。

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