『生きる』こと
年に一度の兄の検診がコロナで二年続けて無くなった。
十年前、静岡市内にある、てんかん・神経医療センターでの24時間の脳波測定を兄が現在いる施設入所の安心条件としてもらった。
その時、愛知県田原市の施設が兄の終の住処となった。
兄の施設のエントランスにこんな絵が飾ってあった。
利用者の方が描かれた絵のようであった。
その時しばらく見入ってしまった。
作者の意図を聞いてはいないがこの絵は私に考えさせた。
あまり利用者の身内を見かけることはないいつも静かな施設である。
私の知る福祉施設の中で人も設備も一級の施設である。
しかし、ここに来たくて入所している人はいないであろう。
兄もそうだが、家族と共に生活出来ない現実を受け入れて皆さんここにいる。
家族からすれば安心してそれで変わらぬ日常を過ごしてもらえ、安堵のなか働き生活の糧を得ることが出来る。
病人や障害者と共に生活する事は大きな困難を家族に強いる。
同時にどんな事があろうとも皆が生きていかなければならない現実がある。
誰もが経験した事の無い高齢化社会に突入した日本には口に出さないだけで、今これに似た苦労をされている方は少なくないだろう。
割り切ればいい、割り切ってまともな親なら家族なら、どう考えるかを想像して判断すればいい。
実の子であろうとなかろうと親を送り出す苦悩と闘い罪悪感のなか、ためらい先を選択する人もいるであろう、そんな時は考えたらいい。
まともな親は子を苦労の海に沈めるためにこの世に送り出したわけじゃない。
苦しいのは同じ、皆、イーブンなのである。
互いに何かを削って生きていかなければならない。
そして、互いにその分得るものもあるはずである。
そんな中この絵が私に考えたのは、皆そう理解はしているものの、やっぱり寂しさはあるのではないか、だった。
皆、生きている人間なんだから、家族なんだから。
いつも兄貴に会いに行き、何かを感じさせられて成長させてもらっているような気がする。
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