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ふとおもいだすこと

いつもふと思い出してここに文章を書いているのだが、新聞で某スーパーゼネコンのアホな東北支店の職員の記事を目にし、いまだにこんな奴がいるのかと、「チッ、」と舌を鳴らしながら、私がゼネコン時代に世話になった建築屋の先輩をふと思い出していた。

その先輩の仲間は皆、真面目で優秀な叩き上げの建築屋さん達だった。
その先輩もそう、よく遊びよく仕事を教えてくれた。

私が入社した1985年昭和60年よりもう少し前に入社したこの先輩たちの遊びは激しく、度を越していたようである。

その先輩は私の入社前に広い京都府のちょうど真ん中あたりにある鍼灸の学校の新築現場にいたそうである。
そして事件が起きたタイミングは給料日、しかも翌日は大切な生コンクリートの打設作業が待っていた。
でもそのために宿舎でおとなしく待てるようなメンバーではなく、おとなしく待てるような給料日ではなかった。
現場の自動車で祇園に乗りつけ、サウナで汗と汚れを流し、寿司を食っていつものクラブで閉店まで、、
そこで流れ解散、ある先輩はクラブのお姉さんの部屋に行き、車で帰った三人は途中田んぼに転落し、朝からレッカー車をそのために呼びつけ所長にひどく怒られたそうだ。
しかし、極めつけのもう一人の先輩は朝電話があり、山陰線の夜行に乗ったが気がついたら日本海が見えるからとそのまま休んで城崎温泉まで行く、と言って電話を切ったそうだ。
おおらかな時代でおおらかな会社だった。

その先輩としばらく一緒に仕事をしていた。
私は現場をいくつも掛け持ちの事務屋だった。
京都府下全域が担当エリア、車でウロウロしていつも夕方から夜にかけて先輩の現場に着いた。
御所のすぐ西側のホテルの増築工事、突貫の現場でいつも仕事が終わるのは9時、10時、それから若い建築屋二人を連れて四人が四台の自家用車で祇園まで行き、飯を食ってクラブに行って帰ってもほとんど寝る時間など無いような生活を送っていた。
日曜だけ休みだった。
死んだように眠り罪滅ぼしのように夕方買い物に付き合い、近所の公園で息子とキャッチボールをした。

そんな生活に区切りをつけようと夜の時間中に先輩から1時間だけ時間をもらいフルコンタクトの空手の道場に通った。
倉庫を道場にしており、もちろん床はコンクリート、薄暗いその道場には私の求めるストイックな雰囲気があった。
ひたすら汗をかき、筋がよいとほめられ、合気道をやめてもいいかなと思ってたある日、夕方その時間まで前夜の酒が残ってたある日、長老のおっさんとのスパーリングを命じられた。
その長老は今の私の年齢ぐらいだっただろう。
構えてボッとした瞬間に左の脇腹に軽いフックが命中した。
息が出来なかった。やばいと思った。まわりもそう思い、中断。
一晩我慢して整形外科に行くとアバラ二本にひびが入っていた。
そこで空手はやめてしまった。
その時、前の晩に酒を飲みすぎずに行ってたら今頃空手を教えていたかも知れない。

たら、ればと振り返りながら人生はここまで続いている。
しかし、振り返ると一つも偶然は無く、全ては必然に基づきここまで流れているような気がしてならない。
神の存在は信じていないが、それに近い何かに動かされているように思う。
私のごく近しい知人がいつも言うように、努力しただけ最後にはみな平等にご褒美が待っている。
そんな気がしてならない最近である。

そして昨晩も天に近い声で大きく人生を変える出来事があった。
人の経験による相手をおもんばかるその行為にあらがうすべはなく、これからの時間に従うしかないのである。
人が生きるためには思いやりと優しさと自制が必要だと天に近い声は言った。

『ふと思い出す』引き金はさまざまである。
この思い出しにまだまだ私は成長させられていくような気がする。


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