年の瀬にパスタが呼び起こす記憶
子どもの頃、ほうれん草が好きではなかった。正確に言うと母が作るほうれん草料理が苦手だった。いつもくたくたに茹でたお浸しだった。板海苔で巻き包丁できれいに切られたそれは見た目は悪くはないが進んで食べたくはなかった。テレビの『ポパイ』でほうれん草の缶詰を一気食いするのを目にして嘔吐きそうになったものである。アメリカのホウレン草協会が子どもにほうれん草を大量消費させようとした悪だくみに違いないと思ったものである。
旬が分からなくなりつつあるこの時代でも露地物のこのちぢみほうれん草は寒いこの時期だけスーパーで並ぶ。美味いが下ごしらえが面倒でなかなか手が伸びない。しかし、寒さに耐えて近所のスーパーまでやって来てくれたコイツにあえて手を出してやりたい。
買った時にはバターソテーくらいにしようかと思っていた。濃い味のこのちぢみほうれん草、甘くてアクが無い。たまたまテレビでパスタを目にして用途変更を決めた。面倒くささの原因の洗浄もなるべく大きなボールかシンクに水が張れるならばさほど気にならないない。10分も浸けておき、土のたまる根っこを切り落とし洗う。葉っぱにこびりついた土は手で洗う。多少は面倒くさいが難しくはない。そしてザルで適当に水切りをして、葉と茎をこれまた適当に分け切りザク切りにする。フライパンにはオリーブ油、ニンニクとベーコンを刻んだのを炒めて、同時にパスタも茹でる。ちぢみほうれん草は茎を炒め、葉を炒め、クタクタになる前に塩コショウして汁が出てきたところにパスタを炒め合わせる。
パスタを茹でる時、いつも子どもの頃みたカルピス子供劇場の『母をたずねて三千里』を思い出す。お母さんが帰ってくるのに乗っているであろう船の到着を待つ間、自宅で子猿のアメディオを相手しながら寸胴鍋でパスタを茹でるマルコを思い出す。そして、それしか無かったのだろうに、「今日は粉チーズだけにしておこう」と寂しく食事を済ませる。なんだか共稼ぎでいつも家にいない母の帰りを待ち、冷えた残りごはんに瓶詰のなめ茸をかけてすき腹を満たしていた自分を思い出したものである。
パスタなんて自分で料理して食べる時が来るなんてその時は想像もしなかったが、今では普通にわが家の食卓に上がるようになった。高級な物を食べることで生活が豊かになったとは思わないが、テレビの向こうにあったこんななんでもない料理を食べる時に私はいつも気持ちの豊かさを感じている。
あの当時あり得なかったちょっとした幸せを感じるのである。
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