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母の遺産

二年前に亡くなった母、その後私は転居し、私のいい加減な性分から多くの方と連絡を絶った。
母の友人からも年賀状が来ていたかも知れないと思い、その方には手紙を書いた。
その母の幼なじみから手紙が届いた。
母と同性の女性、同級生の方だ。

母たちの郷里である山形県南陽市なんようしの南隣の米沢市から新潟県村上市坂町さかまちまで走るJR米坂よねさか線という路線がある。
(八月の記録的な大雨で鉄橋が流されるなどの被害が出た路線である。)
最上川に沿って走り途中山形県でも指折りの豪雪地帯の小国おぐにを通って日本海に向かう。
二両編成の可愛らしい電車が緑の中を走り抜けていったその先にその方は住んでいた。
山形と新潟を繋ぐ米坂線のその端に幸せに暮らしていらっしゃった。

十年ほど前、すでにアルツハイマーにかなり冒されていた母を最後の帰郷になるであろうと車で愛知から新潟経由で山形まで行ったことがある。

その時に寄り道して再会をした。
腰も悪くしていた母はその時ばかりは一人で立ち、笑顔で同じことを繰り返し話をし、その方はニコニコと何度も頷いて聞いてくれた。

ご苦労をされた方である。
母には母親はいなかったが、裕福で何不自由なく生活出来る家だったそうだ。
その向かいがその方のお宅だったそうである。
何の因果がそうさせたのか分からぬが、極貧であるその方の家に母はいつも入り浸り、二人は姉妹のように付き合っていたそうである。

母はいつも着る物を新調してもらうと必ず二着作ってもらい内緒でその方にあげていたそうである。
でも向かいの娘さんのことである、すぐに分かって母はいつも叱られたそうだ。
でも、それは続いていたそうだから母の姉達も黙認していたのであろう。

成人してからその家から抜け出させるために、母は奉職した病院で派遣された山奥のダムの工事現場の飯場の手伝いに、建設会社に話を付けて山形から呼び出して働かせたそうである。

そして、その時のゼネコン職員と所帯を持ち、暮らしている先が村上市なのである。

その方は母と同年齢の92歳、震える手でしたためられたその手紙には「また会って話をしたかった。近くにいて欲しかった。すぐに会えるね。」と死んだ母への気持ちが認められていた。

母は必要以外なことはあまり話をしない人だった。

私がこんなところにこんな事を書くことも厭うはずだが、あの世に行ってしまった母は許してくれるだろう。

母のような生き方をしたいと思う。
多くを語らず、は誤解も生みやすい。
でも、この年齢になってくるとそんな誤解もあまり気にならなくなってくる。

認知症になって口の固い母の口から分かったことがいくつかあったが、死んでしまってから分かったこともいくつかあった。
それは全て母の遺産である。
母の遺産を知り嬉しく思った。

私は台風の置き土産の湿った夜に寝苦しさを感じることなく気が付けば夢の中にいた。

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