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JR西日本 大阪環状線鶴橋駅

1985年(昭和60年)9月、乗り換えのために生まれて初めて降りた鶴橋駅はその臭いに面食らった。

大学を卒業し、入社したのは東京本社のゼネコン、5か月間の英語研修を受けた後の赴任地は大阪だった。
小学三年の時、兄のてんかんの診察のために一度阪大病院まで来た。そのほぼ残っていない記憶しかない大阪で、シールドの現場見学に行く途中だった。入社同期の三人と現場から案内役でやって来た事務主任と京橋から環状線に乗り、鶴橋駅に着き「さあ、乗り換えだ」と降りる前に車内に焼肉の臭いが漂ってきた。

朝の10時前だったと思う。不思議な場所だと思った。そんな鶴橋駅を頻繁に利用するようになるなんてその時はもちろん思いもしなかった。

その時の鶴橋駅も不思議であったが、現場見学に行った先の昼飯も不思議だった。近鉄奈良線に乗っていった先の東大阪のシールドの現場で記憶にあるのは昼に連れて行ってもらった小さなお好み焼き屋である。「地元協力でもあるから好きなものを注文しろ」と事務主任は言った。
壁に貼ってあったのはお好み焼き定食と焼きそば定食の短冊だった。

お好み焼きと焼きそば、そのどちらもが私にはご飯の友ではなかった。お好み焼き定食を食べたが違和感だけを憶えている。大阪出身の同期によるとタコ焼き定食まであると聞いて驚いた。
私にはいまだに違和感の残る『粉もん定食』である。

鶴橋は大阪環状線の他に近鉄奈良線、近鉄大阪線、地下鉄千日前線の駅がある。
私は一時期、この近鉄大阪線の五位堂という駅の住宅都市整備公団(現UR)が開発した大きなニュータウンに住んでいた。

古墳群を利用し多くの公園があり、人間が生きるための緑の中の町に10年ほど住んでいた。今まで住んだ中で一番環境の良い街だった。しかし、この五位堂駅に夜たどり着くのが大変なことが多々あった。毎晩酔っ払って帰るのにこの20分は危険すぎた。朝は座れることは無いのだが、遅い帰りは座れることがあった。そして時々寝過ごした。隣の駅ならばなんとか歩いて帰れたが、三重県まで行ってしまい、そんな時は帰りは翌朝だった。

鶴橋駅に着く前にしこたま飲んでいるのだが一時間に2本しかない快速を待つ間にいつも鶴橋の町をウロウロした。焼肉だけの町ではない、普通の居酒屋も焼き肉屋もチェーン店も個人経営の店もいろんな店がごっちゃに存在していた。近鉄駅改札徒歩0分のモツの串焼き屋か年季の入った立ち飲み屋に寄って帰った。時々JR駅改札口向かいにあった立ち食いの寿司屋にも寄った。
その頃は若く、今よりもよく食いよく飲んだ。

そしてこの鶴橋には合気道の稽古にも時々足を運んだ。大阪聖公会の教会の牧師が七段の合気道の師範で現在もいらっしゃる。教会内でマットを敷き、地元の方と大学生に合気道を教えてらっしゃる。教会内で合気道の稽古をしているのは日本の中でここだけではないだろうか。熱心で優しい師範である。しかもこよなく酒を愛していらっしゃる。そしてその後、私は聖公会の牧師様たちに世話になる事になる。阿倍野で開いた飲み屋の近くに聖公会の事務所があったのだ。会議の帰りにはよく寄ってもらった。酒の強い方ばかりだった。


とりとめのない話で恐縮です。新旧の時間や文化、焼肉の煙がごっちゃになった鶴橋を語るにはまだ時間がかかりそうです。その後、まさか毎日来るようになるとは思わなかった鶴橋駅のことはまたの機会にお聞きいただきたく思います。


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