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海を渡ってやって来たお茶と人の名と

台湾の黄絢絢さんから日本に帰化した東京の甥御さん経由でお茶とお菓子が送られてきた。律儀な方である。現代の私たちよりも昔の日本人らしさを持っているといつも感じる。なんだかお茶を熱いまま飲まなければならないように思い、心なしかの秋風がそよぎ込むがまだ暑い居間で熱々にしたジャスミン茶を頂いた。

私が小学4年の頃、絢絢は日本にいた。休みによく家までやって来て母と長い時間話をして二人でお茶を飲んでいた。母は農家の出身である。お茶請けには漬物をよく出していた。絢絢も美味しいと言って食べていたのを記憶する。なんとも日本人ぽい台湾人だと思ったことがある。

それから半世紀の間に何度も絢絢と会っている。その場所は変わり東京であり大阪であり、台北であった。絢絢が愛知県豊橋市の病院に研修でいたのは1年間も無かったと思うが、なんだかその時間は長く感じられる濃密な時間だったように思う。当時60歳すぎくらいだった絢絢のお母さまは私の家に長く滞在した。絢絢の弟さんは自身で電気機器関係の会社を立ち上げて日本の工業製品を輸入していたようである。たまたまその取引先が豊川市にあるメーカーであった。だから時々我が家にいらっしゃることもあった。その頃生まれている男の子が東京にいる甥御さんである。甥御さんの名前に豊川の「豊」が入ってるが、今は無くなってしまったその会社の社名から取った名前であろうと思っている。絢絢からも弟さんからも、甥御さんからもその名の由来は聞いたことはない。私の推測であるが、たぶん間違いないと思う。

余談ではあるが、ゼネコン時代にともに仕事をしていた男と今も付き合いがある。この男も私が辞めた1年くらい後に会社を辞めている。名を達見という。達見とは台湾にあるダムの名前である。達見(徳基)ダムは半世紀も前に私がいたゼネコンが築造している。彼の親父はこの仕事を取って来た営業マンなのである。思い入れのある現場の名前をその頃生まれた息子につけたのである。親父はその息子が自分と同じ会社に入社すると想像しただろうか。ともに会社を辞めた後にもずっと縁の切れないこの男になんとも不思議を感じる。そして、人の名前の成り立ちにも不思議を感じる。

名前の不思議はまだある。私の「ひでき」の「き」は樹木の樹である。これが小学生の頃字画が多くて面倒くさかった。試験時間が同級生より短くなるとも思った。しかし、父はこの樹ではなく機のつく「ひでき」にしたかったそうである。でもそれは周囲から反対されて今の「樹」のつく「ひでき」になったそうである。父は字画が減って本人が少し楽できるだろうと思ったそうだがなんのことはない、機も樹も同じ16画なのである。父は優秀な技術者だったと噂では聞くが時々大ざっぱな男であった。
そして私は大学で合気道部に入り、私がひょっとしたら同じ名前だったその方のお孫さんと知り合ったのである。

暑いお茶をずるずるすすりながら人の名前をつらつら考える。奈良から届いた葛菓子は思いのほか美味しかった。贈り主は設計事務所時代のもと上司、名は「菱平」、りょうへいである。私の好きな名前である。私の息子に付けようと用意したのが「太郎」たろうと「良平」りょうへいだった。郎やら平の付く古風な名前が好きなのである。これも実は反対されてしまい「介」のつく名で落ち着いた。
深く考えなければなんでもない人の名であるが、何でも深く考えてしまうのが生来の私の癖なのである。

絢絢から送られてきた菓子は台北のスターバックスで売ってたパイナップルケーキ(鳳梨酥)だった。
台湾、中国の料理や菓子の名前も面白いが、長くなるのでまたにしようと思う。


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