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生きるためにやって来た仕事(そこで出会った人たち その5)焼うどんの思い出

ゼネコンに入社して二年目ぐらいだろうか、まだ右も左も分らないまま建設業の事務に頭を悩ませていた。

そんな時である。
やっと『半ドン』の制度が会社にもやって来た。
今のお若い方はご存じないだろう、今のような週休二日などまだ夢の話の時期に、世の中の多くの会社の土曜日の営業は午前中だけになったのである。


8時半に始業の会社だった。午前中の三時間ほどでやれる仕事は限られている。身の回り、机の引き出しの整理などしていた。皆、この半ドンを楽しみにしていた。
いつもより丁寧に女性社員が各人にお茶を出し、普段はやらないような丁寧な掃除まで皆ニコニコしながらやっていた。
普段はお互い角を出し合うおばちゃん社員も旧知の友との再会のように笑い話が弾んでいた。
皆にこの土曜日の半ドンは特別の日であったようだった。

そして昼のチャイムとともに皆いなくなった。
しかし、どのゼネコンも土曜日の現場は終日動いていた。
中継基地である私のいた営業所に人がいないわけにはいかなかった。
たいてい私が夕方まで残った。片付かない仕事を片付けたり、事務課長の机から連れて行ってもらった先斗町の割烹の領収書を見つけたり、営業部長の机からは祇園のクラブのママの名刺に自宅の電話番号が書いてあるのを見つけたりと、普段出来ない仕事に精を出した。

そんなことをしていると陽が傾きかけた頃にポツポツと現場を終えて営業所の現場との連絡箱をのぞきに現場の責任者や、若い人間がやって来る。
そして、何人か集まるとシャッターを降ろして近所の居酒屋に行った。

どんな業界にもしきたりや因習、貴方の知らない世界があると思う。
ゼネコンではJV(共同企業体)という二社から複数社で一つの組織を作って建設工事を行う時がある。発注者の指示で行うことが多いが、発注者に知られないようにそのJVを組む場合もある。いろんな理由はあるが業界の付き合いや現場担当者の不足などの色々なしがらみである。

ある土曜日の昼過ぎに京都の南部の他ゼネコンがスポンサーを務める大きな造成現場に出向していた戸田さんがやって来た。
私はずっと戸田さんを名前しか知らなかった。他社の作業服を着て、真っ黒に顔は日焼けし「戸田です」と事務所に入って来た。大事な書類を置き、連絡箱の書類をカバンに詰め込み「宮島君、昼メシ付き合えよ」と言われ、事務所に鍵をかけて近所のお好み焼き屋に連れていってもらった。

そこで食べたのが焼うどんだったのである。昼メシは済ませていたのだが、若かった。初めて食べたお好み焼き屋の焼うどんは美味く、ビールも美味かった。戸田さんは私より5歳年上だった。九州の工業高校出身で私の10年先輩の社会人だった。会社には戸田さんのような自社のユニホームを着ることの出来ない社員がどうしてもいた。そして、タイミングが悪いとしか言えないのだがそんな人はそんな現場が続いてしまう。戸田さんのいた現場は近畿から東海にまでエリアを持つ私鉄が発注のとてもデカい宅地造成現場だった。

なかには自社のカラーを捨てて染まりきることが出来て、一作業員のように指示されたことだけで生きることを好むタイプの社員もいるだろう。でも私の目から見たら日陰での仕事だった。

戸田さんとはこの後、ことある毎に話をする機会があった。
数年後には人間を見る能力のある土木の責任者がその現場から引き抜き、違う関西私鉄の高架工事の現場責任者に抜擢した。
自社の作業服で働く戸田さんは実力を発揮した。誰からも好かれて、定年後もその鉄道会社の嘱託職員として働いている。

苦があれば必ず福は来る。ふし穴の目の持ち主ばかりが上司じゃない。
自宅で焼きうどんを作り、そんな事を思い出していた。
ずっと不義理をしているが、そのうち戸田さんと会ってそんな昔話をしてみたいと思っている。

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