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トラの『耳ぽっち』 第十夜

― その後、いや、その前後のはなし ―

私は飼い猫トラ、亡くなったご両親から引き取られて、この男に面倒をみてもらってきた。
この男の枕になっていつも玄関で聞いてきた昔話だ。

同じゼネコンに勤めていた鈴木先輩は実はこの男と同郷だったそうな。
営業部に転属して、まだ右も左もわからない時に、まだパソコンいや、ワープロもなかった頃に共用のコンピュータを使ってテナントビルの事業収支を作る機会があったという。
その時のインストラクターが鈴木先輩だったそうな。
話をしていて隣町の出身だと分かって、その晩一緒に鶴橋の立ち飲み屋まで行き、そのまま鈴木先輩の家まで行ったそうな。
年の近い先輩がいない営業部で唯一の気の許せる先輩だったらしい。

実は、鈴木先輩の生前にこの男は先輩のお父さんに頭を下げに行ったことがある。
先輩のお父さんはこの男の住む市の助役をやってた人だった。
その時この男はご両親とお兄さんの介護、看病で休職して三人の終の住処のことで、それこそ東奔西走していた。
「何とか兄貴の入れる施設を世話して欲しい」って頭下げに行ったそうな。
でも、お父さんは偉い人だった。
「出来ることはしてやるが、表からも攻めろ」と言ったそうな。
あまりにたくさんの裏の世界を見てきたこの男に諭したんだね。
次の日から毎日、三か月の間、市役所に通ってお兄さんの施設は決まったんだよ。

この先輩のお父さんは先輩が自ら命を絶ってしばらくして亡くなったそうな。
気落ちしたんだってこの男は言っていたよ。


人の縁は不思議なもの、人の不幸と不幸が関わり合わなければ結び合うことのない縁もある。

そして、実はこの男の元上司が鈴木先輩をうつ病にまで陥れた男だったそうな。
当時社員が一万人いる会社で一番か二番を争う営業部長だった。
この男もこの上司とは大ゲンカをしている。
二週間も会社に行かなかった。
その時には多くの同僚や先輩が当時の支店長にまで話をして戻ることになったそうな。
でもこの上司が原因で本当に辞めた人がいたそうだよ。
そんなことが平気で出来るのはある意味才能だとこの男は言ってた。

でも、この男は、この上司よりも執念深いのかも知れない、そのゼネコンを辞めた後もずっと付き合いしてたんだそうな。
もちろんそんな上司だから会社を辞めたら付きあえる同僚も友達もいやしない、たった一人の友だちのフリをしていた。
でも、傘寿を迎える前の週に会って「鈴木さんって憶えてますか」って聞いたそうな。
「知らない」って答えたそうだよ、そこで切ったんだって。
「自分で首絞めて死んだよ」って言って帰って来たんだって。
そんな設計の脳ミソを持った人間が世の中にはいるんだってこの男は言ってたよ。

大きな仕事をいくつもやって来た。でもその上司との仕事には達成感や喜びは無かったってさ。


なんとも人としてこの世で生きることは難しそうである。
猫に生まれてきて本当によかったと思う。
人間の気持ちは猫の私には到底理解できそうにない。


その上司とやった仕事


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