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宿酔い(ふつかよい)

二日酔いなんて、もう記憶の彼方である。
いつからこんな健全な生活を送るようになったのだろう。

いやいや考える事もなく、日本のほとんどの皆さんと同様に流行り病が猛威を振るい出してからだ。

もともとアルコールには耐性があるようでよほど飲まなければ二日酔いなど無い。
しかし、サラリーマン時代ほぼ毎朝が二日酔いだった。
酒の酔いは気分にもよるもの、気持ちよく飲まねば酒にも申し訳ない。
わかってはいたが無茶苦茶な飲み方だった。

たぶん私は、私の生涯における飲酒の規定量をとうに超えるくらい酒を飲んできたと思う。
毎晩仕事は遅く、資料作りも報告書も手書きの当時、脳は凝り固まり、飯も食わず、腹が減るのも忘れ、仕事を終わらせ、後輩を連れて終電まではじけるように飲んだ。
接待では飲んでも飲んでも酔うことは無く、お客さんをタクシーに乗せてからも一人スナックでウイスキーの水割りを飲んだ。
遠く京都までの通勤では午後10時で奈良まで帰る電車は無くなり、あきらめてとことん飲んで事務所に泊まった。

相手のいる酒は楽しかった。
毎晩一人で飲むほど酒は好きではないのかも知れない。

飲むなと言われれば飲みたくなるのが人の常。
売るなと言われれば売りたくなるのは私ばかりではないだろう。
立ち飲み屋を続けていたら今頃どうしていただろう。

先の見えない漠然とした不安ほど心を揺さぶるものはない。
戦争のほうがまだましなのではないか、『欲しがりません勝つまでは』と、無理矢理ではあるが納得させられ納得し、皆が同じ方向を向くことが出来た。
ところが今は納得無しの一方通行。

それに今の喪が明けたら元に戻る保証などどこにもない。

この二日酔い、開高健はいつも宿酔い、としたためていた。
私もこの方がしっくりくる。
今のこの異常事態のなか、廃れる文化を考えて欲しい。
普通に近い日常に戻った時に何もなくてもいいのだろうか。
楽しみは何もなくてもいいのだろうか。
飲み屋も文化である。
守るのは客の我々なのである。
守り方を考えるのは私たちなのである。
ひとたび消えた火を再び灯すのは極めて困難である。
意味の無い悪人探しのようなことはもうやめて、皆が全体を見渡して考えなければならないと思う。

出来れば宿酔を忘れてしまう前に。

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