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湖畔から見た朝陽(私の思い出)

最近ふと思い出すことが多い。これも年を重ねた証拠なのであろうか。死ぬ間際に見ることが出来るという『走馬灯』とはこんな最近思い出したことのリバイブのようなものなのか。ならばたいして面白くなさそうである。
昨日の私の記事にカナダにお住いの ながつきかずさん からコメントをいただいた。ながつきさんはアメリカ人のご主人とともにカナダのシムコー湖畔に移り住み生活されてきた。ご不幸にもご主人は他界されたのだが、ながつきさんは最期までシムコー湖畔でご主人に寄り添い、今はお一人で生活されている。ご主人は兵役であのベトナムで戦争体験をされた。そんなパートナーと長い時間をともにした日本人女性はほとんどいないのではないだろうか。口には出せないご主人の多くのトラウマをながつきさんはそのそばで感じたんじゃないかと思う。関西ご出身(?)、関西で生活もされていたこともあるながつきさんを不思議な人だと思い記事を拝見させてもらっている。

昨日のコメントで一度も行ったことの無いシムコー湖畔の朝はどんなに素晴らしいのだろうかと思いながら湖畔で一度くらい目を覚ましてみたいと考えると、ふと昔湖畔での目覚めを経験したことを思い出した。
今からもう46年も前になる。高校二年の私は夏休みに愛知県豊橋市から母の故郷山形県南陽市赤湯まで一人自転車で向かった。父は海外に単身赴任、兄は静岡の国立神経医療センターに長期で入院中だった。私はその頃とにかく家に居たくなく、中学時代から買い集めた部品で組み立てた自転車で山形まで旅立った。太平洋を右手に見ながらひた走り、左手に富士山の存在を感じながら走った。箱根は想像以上にきつい峠だったが、山形からの帰り道と比べるとたいした坂ではなかった。東京の叔母の家にしばらく滞在し、従姉が銀座資生堂パーラーに連れて行ってくれた。汚れた短パンとTシャツで歩く銀座は恥ずかしかった。

一人用の簡易テントか野宿、時々ユースホステルを予約して風呂に入った。
山形では本当に自転車で来るとは思わなかったと驚かれ歓待してもらった。
ブドウの収穫繁忙期ではあったが蔵王温泉や日本海まで海水浴に連れて行ってもらったりした。初めてブドウの収穫の手伝いもし、叔母さんの美味しい手料理を毎日堪能して一週間が過ぎた。別れの日はまだ幼い従妹に泣かれた。帰りのルートを叔父さんに話すると「とんでもねえ」とルート変更を求められたが私の頑固な性格で思い直し、「途中まで車で送る」と言ってくれた。福島県猪苗代湖まで叔父さんは忙しいのに時間を私のために割いてトラックで送ってくれた。野口英世記念館のそばで叔母さんの握ってくれたおむすびを二人で食べたのを憶えている。

叔父さんと別れそこからはひたすら山道だった。只見川に沿って走り、奥只見ダム、田子倉ダムを脇に見ながら十日町を経由して長野県に入った。本州の真ん中を南下する感じだった。只見川添いに走る道路はほとんど車も、もちろん人も通らず私は緑に包まれているように感じて走った。それまで見たことのない包蔵量の只見川はその水の動きが目では分からないほどゆっくりゆっくり流れていた。

十日町ではユースホステルに泊まった。そこで知り合った悪い先輩が泊まる場所に困ったら警察署に駆け込んだら泊めてくれると言った言葉を信じこみ、その後の雨降りの長野市では野宿の場所が見つからず、警察署に駆け込んだら長野県警御用達の安い温泉旅館を紹介してくれた。でも、その金が無いからここに泊めてくれと言ったら、千円ほどの宿泊代をその警察官が払ってくれた。ゆっくり熱い風呂に入り美味い晩飯を食って寝た。翌朝警察署に寄って礼を言ったのは言うまでもない。

そしてその日の事である。
長野をひた走り、白馬経由で木崎湖あたりで暗くなりかかり、湖畔の神社の境内にテントを張った。誰もいない静かな湖畔であった。翌朝は美しい朝の湖が見れるなと思いラーメンを食べて横になった途端にすぐ寝てたと思う。そして夜中に起こされたのである。大雨と強風、湖面が上がりテントは浸水し半分水に浸かったまま目が覚めた。「ヤバい」と思いそのまま神社の社の中に入り込み朝までテントにくるまって濡れたまま寝た。
身体は冷え切り寒くて目が覚めた時には雨は上がっていた。
地面は濡れ、樹々からはがされ落ちた葉が点々として綺麗だった。
鳥はさえずり、しばらくすると山の間から朝陽が顔を出してきた。思えば湖畔の朝を初めて体験した時だっただろう。その時の美しさと安堵を思い出したのである。
そこから自宅には三日間ほどで帰れたであろう。スマホも無い当時、家に電話する約束も忘れて一度もすることは無く、ひどく母を心配させたと思う。

私の半世紀近くも前の湖畔での目覚め体験である。そんな長いひと夏の経験をながつきさんにコメントの返事をしながら思い出していた。
あの時の安堵を思い出していた。
その頃はまだまだ幸せな右肩上がりの日本だった。
先進国と言われるアメリカで、なりふり構わず世界のアメリカになるため走り続けたアメリカの、犠牲とも言えるご主人は今を幸せな世と思ったのであろうか。
とても気になるのである。
本当の幸せって何なんだろう、幸せを求めてながつきさんのご主人はシムコーという湖に辿り着きその湖畔でお二人で生活を始めたのだろうか。
人生観が変わるようなショッキングな出来事に遭遇して乗り切らなければ本当の幸せを見つけることは出来ないのだろうか。
仮にそうだとしたら、それが戦争という究極の不幸であるならば、それを乗り越えなければ峠の向こうの光明が見えないのならば、あまりに残酷過ぎると思う。
今も世界中で進行中の諸々もそのためだというなら残酷過ぎる。
我々や子ども達にこれからそんな事を求めようとするなら残酷過ぎる。

ながつきさんのコメントで、つらつらとそんなこんなを考え、そんなこんなを思い出した。


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