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『昭和の匂い』と鰻

今日もnoteにnoteする昭和が懐かしい六十歳である。

昨日は母の握り飯から思い出す『昭和の匂い』であった。

嗅覚による『匂い』は大きく味覚に関係する。炊き立てのご飯での母の作る握り飯も美味かった。味噌をぬったやつだ。

まだ熱い炊き立てのご飯を手に取り握るのは愛する者のためでなければ出来はしない。その熱さは握ったものにしか分からない。

母の握ったそんな味噌握りはご飯の熱気が味噌の匂いを引き立てた。母がいなくなって、自分でやっても同じ味にはならない。二度と食べる事の出来ない私の美味しい『匂い』の記憶である。

記憶再生装置としての『鰻』

食べ物の『匂い』でいえば代表選手として間違いなく挙げられるであろう『鰻』。

その鰻が夏井いつきが選者をする松山市公式俳句投句サイト『俳句ポスト365』の兼題となった時の投稿文章である。

『鰻』が夏井いつきの言う『記憶再生装置』となり、蘇らせたのがここに続く文章である。俳句を作ろうと私の脳にこの『鰻』を放り込まなければ決して蘇ることのなかった記憶なのである。

俳句を生みだすまでのこの過程も楽しい私の俳句作りなのである。そんな楽しみを与えてくれた富山の『ねずみ男』先輩と夏井いつきに心から感謝する。


◆今週のオススメ「小随筆」
 お便りというよりは、超短い随筆の味わい。人生が見えてくる、お人柄が見えてくる~♪

●我が故郷愛知県東三河は鰻を名産とする静岡県浜名湖のすぐ隣に位置する。 そんなわけで鰻との縁は深く、小学校の同級生に家業で鰻の養殖をやってる男もいた。 

Sハルオ、通称『ハルチン』である。 ハルチンとは仲が良かった。ハルチンは足が早く運動会ではいつもヒーローだった。 子供たちの間では鰻をいつも食べているから足が早いんだなんて噂が流れていた。 

私はハルチンは好きだったが鰻は嫌いだった。 長い生き物が嫌で鰻が苦手だというのはよく聞く。 でもそんな問題ではなく、私には鰻は美味くない食べ物だったのである。 

東京で下宿生活をして初めて知ったのだが豊橋、豊川のスーパーの鮮魚コーナーに並ぶ串に打たれた生の鰻の開きはかなりイレギュラーなものであった。 

それにも増して我が家では月に一度くらい、母から「ハルオ君とこ行ってきて」と千円札を握らされる。 エーッと思いながら歩いて2分のハルチンの家まで行く。 

声をかけるとおばさんが出て来る。 優しいハルチンの母さんだ。 ハルチンの自宅一階の広いコンクリートの土間には幾層にもプラスチックのカゴが積まれた塔が何本も立っており天井近くのコックから、汲み上げられた地下水が流れ続けていた。 もちろん中には生きた鰻がいる。 地下水で泥を吐かせていると聞いていた。

 おばさんに千円札を渡すとカゴから大きな鰻を一匹器用につかみ出し使い込んだまな板に置いて千枚通しを鰻の顔に打ち、裂き、切り、串を打ってくれた。 

そうなのである。 我が家では鰻の蒲焼きは自宅の台所のガスコンロで焼くものだったのである。 しかも、母がタレを作っていた。 専門料理店などに行ったことのない私には鰻は美味くない食べ物だったのである。

 そして東京で下宿生活を送っていた時である。 合気道部の先輩がバイト代が出たから鰻を食わせてやる、と言う。 合気道部では先輩には絶対服従であり、その代わりという訳でもないのどが、金を払ったことは一度も無かった。 

連れて行かれたのは新宿西口のしょんべん横丁の入口にあった怪しいウナギ家であった。 ウナギ丼が松竹梅のみならず、五段階くらいにランク分けられていたように記憶する。 その中で一番安い350円の丼をご馳走になった。 当時でもかなり安いウナギ丼だったのである。 が、しかしである、表面がこんがり焼けた鰻の身とタレのしみた熱々のご飯を口に運ぶと私のそれまでの常識の天と地はひっくり返ったのであった。

 鰻が美味かった。ひたすら美味かった。 子どもの頃には当たり前と思っていた家ごはんの蒲焼きであったが、今となっては実はかなり稀有な体験を持った日本人ではないかと自分の事を思うようになった。 

職業婦人であった母には感謝している。 私の今持つ料理に対する感覚の多くは母を見てきて培ったものだからだ。 反面教師の母の料理は子どもの私に料理に対する好奇心や向学心を根付けてくれた。

 認知症になってしまった母は私の作る料理を美味い美味いと言って食べてくれた。 子どもの頃「ひできは何を食べても美味しいと言ってくれるねぇ」と言った母は実は自分の料理の味を知っていたのではないかと思う。 口が裂けても美味しくないなんて言えない私の性格もよく分かっていたんだと思う。 だから私の作ったものを美味しいと言ってくれるのではと思い、ならば本当に美味いものを食べてもらおうと真剣に料理に取り組んでいた私がいた。 今の私があるのは実は鰻のお陰かも知れない。 この新型コロナが落ち着いたら一度豊橋あたりの鰻屋で白焼をわさび醤油でつつきながら熱燗で一杯やって鰻に感謝したいものである。 /宮島ひでき


写真の肉じゃがは今回の文章には全く関係無いが、これもまた『昭和の匂い』を感じさせる一品である。

駅前の定食屋の棚にあれば手を伸ばすのは私だけではないと思う。


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