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カニカマが変えた私の人生

故郷愛知県豊橋市には美味い魚の練り製品がある。その中でも『ヤマサ』という創業二百年近いチクワ屋が有名である。確かに私の口ででも大阪のスーパーで買い求める練り製品より美味いと思う。使う材料にもその製法にも二百年の歴史が活きているのであろう。
そして、この『ヤマサ』の練り製品は土産物として豊橋駅の売店やその周辺の名店街や土産物屋で売られるばかりではなく、地元の食品スーパーにも並ぶ地元民にも密着した練り製品なのである。
その味を知り東京や大阪、日本全国に散った豊橋・豊川、東三河の地元民がこのヤマサの味を懐かしがり帰省時に買って戻ったり、中元歳暮で贈ったりしてその味を日本中に広げる。
庶民向け低価格路線で味を根付かせ、贈答用に高級価格帯を買わせる二段構えの戦略である。地元スーパーで味を舌に覚えさせてその先の販売に繋げるなかなか壮大な『ヤマサ』の販売戦略は成功しているように思う。私も中元歳暮は『ヤマサ』に頼っている。

しかし、である。
人に勧めながら私はこの練り製品を出来れば進んで食べたくないのである。ここに何度か書いているが、職業婦人であった母は忙しさを理由にこのヤマサを食卓に並べることが多かった。出された物は黙って食べねばならぬ体育会系宮島家の食卓でニコニコしながら私は自身の身体における生涯の練り製品の許容量を超えるだけ摂食してしまったのだと思う。これ以上食べたならばカフカの『変身』豊橋版で、目覚めたらチクワか蒲鉾に生まれ変わっているのではないかと思ったほどである。過ぎたるは及ばざるが如く、中庸がいい、なんでもほどほどにしなければならないのである。

そんな中、カニカマは登場した。
このカニカマが食卓に並ぶようになったのはいつ頃であろうか。どう見ても蟹には見えないのにカニカマというストレートなネーミングも私には好ましい。私はこんなB級っぽい食べ物が好きある。そして何より食べやすいのがいい。本物のあの手足が動く蟹は美味いがめんどくさい。美しい女性に「あ~ん」としてもらうことがあってもこちらも進んで食べようと思わない。片手でつまんでビニールの包装がツルリと外れるカニカマでいい。
そして何より料理のし易さが私にとっての嬉しさなのである。昨晩はサラダ。レタスとキャベツ、味付けは好みで何でもいい。

カニカマは魚の練り製品でもどうも私にとって『別腹』のようである。いまだカフカの『変身』豊橋版の予兆は現れない。

その人によって好みの味、食べ物の好き嫌いは違う。なかには万人に好まれるという味もある。そしてどの味にもよく考えると思い出がある。私たちは人間である。食べる時には会話もあるだろうし、一人でコンビニのおにぎりを食べていても何がしかを考えているものである。そんな記憶がふと蘇るのである。飲食が記憶再生装置のスイッチになっている。そのために何かを口にするのではないかと思う時がある。

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