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質の高い無駄

出汁は煮干しに決めていた頃、いつも時間があった。

永遠に続く時間はあるが、使える時間には限りがある。
若い頃はそんな事を突き詰めて考えて無駄な時間は作りたくなかった。

それでも不思議である。
そんな時分から喫茶店にいる時間と飲み屋にいる時間は別だった。
この時間はそういう秤で損得を決めたくなかった。
他を詰めてそんな時間を作っていたように思う。

無駄な時間には本当に無駄な時間と必要な無駄な時間があるように思う。
サラリーマン時代のダラダラ続く打ち合わせや互いを安心させんがための会議や、付き合いでの酒飲みは本当に無駄な時間であった。
ましてや休日に社内の人間と顔を合わせる付き合いなど私には考えられない事であった。
私のような生き方はサラリーマンとしては生き辛く、決して優等生でない事は分かっていた。

目的が違うのである。
サラリーマンとしての目的が違ったのである。

雇われている以上仕事を取りに緊張感の中を生きるサラリーマン。
上司やまわりとの付き合いを中心に安穏の中を生きるサラリーマン。
どちらもその評価は変わることは無かった。
ならば仲良しこよしで毎日を呑気で生きる方が賢いのかも知れない。

あとは性格であろう。

出汁を煮干しから出汁の素に変えたらもっと時間が出来た。
違う工夫を料理にするようになった。

必要な無駄に時間を割き、無駄な無駄を減らそうとするばかりではなく、より質の高い無駄を作るのも一つの方法なのかも知れない。
そんな事を考えることが出来るようになったのは歳を重ねてからであった。

私は普通の人間である。
そんなものであろう。
自分の舌で料理の味を理解し、それに向けて作り上げる事、自身で思った味に近づける事と同じであろう。
時間に追われていてはそんなことは考えれない。
大方の経験を積み、失敗を重ねて到着する気付きなのであろう。

生きるために無駄は必要である。
ならば少しでも質の高い無駄とともに居たいと私は思う。

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