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母を訪ねて三千里(その3)別れの日

1945年、第二次世界大戦は終わった。
同時に台湾の日本統治も終わったのである。
黄絢絢は松山空港にほど近い4階建ての住宅に家族とともに生活していた。
小さな島国の台湾の、首都台北には人口が密集している。庭付きの戸建て住宅など一般家庭にはあり得なく、狭い土地の容積率を活かした縦に伸びる住宅が当たり前だった。
黄家は両親と姉、弟二人の家族構成だった。
語学に堪能なお父様は大戦中、日本軍の通訳として東南アジア各地を転々としていたそうである。
そして、終戦後すぐには帰って来なかったと聞いたことがある。
お母様とは違う別の女性とよその国で暮らしていたと母ハルヱとの話から盗み聞いたことがある。
十代の娘盛りの絢絢に十分すぎる影響をお父様は与えたのだろう。
他の姉、弟達は自分の家庭を持って家を出て行った。そして入れ違いにお父様は一人で帰国して来たそうである。
絢絢はどんな気持ちで晩年のお父様と接したのであろうか。推測の域を出ることは無い範囲で誰もが想像するように私も想像する。
台湾の歴史に日本が深く関わり、その関係は終戦後の統治の終わった今に至るまで悪くなることはなかった。
にもかからず、黄家のこんな二次的のような被害はゼロではなかったのではないだろうか。多くの影響、多くの文化を残していった日本である。しかしそれが良いことばかりだとは限らないのである。仲は悪くはないのに付き合うことによって生まれる被害・弊害ってものがどんな世の中にもあっておかしくは無いのかも知れない。

絢絢は私に言った。「ひでき、どうして来てくれるの。」その質問に待つ答えは実を言うと無い。絢絢が親兄弟と同じような存在になっているのである。嬉しいくせにそんな言い方を絢絢は時々するのである。
17歳の歳で終戦を迎え混乱のなか生きて来た絢絢は、17歳の歳で台北に行き将来を悩んでいた私の姿に自分の当時の身を投影したのかも知れない。でも違うのである。生まれ育った時代があまりに違うのである。同時にそれは比較の背景に置けることではないのである。
人生ってのは不思議である。いろんな事が絡まっていろんな事が関係する。たぶんまったく関係が無いように思う事もすべて関係している。今ある私の生は両親の関係だけではないのである。今回の旅であらためて赤の他人である黄絢絢を血の繋がらない肉親だと感じた。うまく説明の出来ぬ私のこの感情には62年間生きて来た私のすべてが関係しているのであろうと思う。だから、理由はどうでもいいのである。

絢絢の老人ホームにいる職員は優秀な若者が多かった。母国語以外に日本語、英語などの第二言語を流暢に使う若者が多かった。彼等彼女等に私は「台湾の母をよろしくお願いします。」と言って帰って来たのである。別れ際に絢絢は目に涙を浮かべていた。子どものいない絢絢を訪ねてくる人間は日本に帰化した甥っ子しかもういない。でもその甥っ子も今は仕事が忙しいのと自身のしがらみがそうはさせていない。「あの子の奥さんに私は嫌われているから」と絢絢はさらっと言う。絢絢には言わなかったが、台湾に来る前に彼から「くれぐれもよろしくお願いします。この先もお願いします。」とLINEが入っていた。どこの国も同じなのである。どこに行こうとも人間のすることは同じで考えることは同じなのである。

ただ、ぬるま湯の日本の幸せのなかで生きて来た私の人生と波乱の歴史のなかで生きて来た絢絢の人生とは違う。そしてまた絢絢の生きている間に大きな歴史のうねりがまたあるのかも知れないのである。淡水の老人ホームの帰りに見た台湾海峡、飛行機の窓からながめた台湾海峡の青黒い海の色に絢絢の人生を垣間見ながら私はまた眠りに落ちていた。


かすかに見える台湾海峡、その向こうには中国があります。


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