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忘れそうで忘れないもの

昨日の伝言板を忘れかけていたとおっしゃる方がいた。
人の記憶を不思議に思う。
多くのことは記憶の引き出しの中に整理されて仕舞われているようである。
なにかのきっかけでこの引き出しに誰かが手をかけてくれる。
意外なことを鮮明に憶えていたりする。

母ハルヱは職業婦人として兄貴の世話をしながら生きてきた。
私は家事のなかで母が料理が得意でなかったことを、一度も非難したことも無く、不満を感じたことも無かった。
大変な毎日を見ていたからそんな否定的な気持ちには自動的に蓋をしてしまっていたのかも知れない。
子どもの頃から調理、食べ物に興味を持てたのはそのせいであって、その点では母ハルヱには感謝している。
これから夏野菜の時期となる、今では年中、日本のどこかから運ばれてスーパーに並んでいる夏に元気なピーマンが子どもの頃からわりと好きであった。
母の料理のレシピにこのピーマンを使ったひき肉詰めがあった。

今、スーパーで肉厚の緑のピーマンを見つければ自然と手が動く。
そして同じように作るのだが、母のそれと同じ味にはならない。
横で見ることもあった、同じようにしても決してそうはならない。
はっきりどんな味か覚えてはいない。でも違うことはわかる。
その時の雰囲気なのかも知れない。

毎晩母の帰りを不安とともに発作を頻発する兄と二人、豊川の社宅で待っていた。
母の顔を見て安堵とともに口にする料理には調理による味付け以上の何かがあったのかも知れない。
それは母の愛情だったのかも知れない。

誰かのために作ろう、そんな気持ちが調理に探求心や興味を加えると思っている。
そして、それが美味しさになるのだと思っている。

今日から大阪でも飲酒が解禁になるようであるが多くの制限のなかで作る側にも仕入れ、仕込み、利益を考えれば以前のように力は入らず、
客も制限された時間のなか、あわただしく摂食、飲酒を作業のようにしなければならないであろう。

本来ある落ち着いた時間にくつろいで食べる、飲む、そんな環境は無いであろう。
本当の味、本来感じることの出来る五感を使っての味わいはまだまだ先にならねば享受できないのであろうか。

しかし、この期間の味に徐々に慣らされてしまって気がつけば本来の味が記憶の引き出しから無くなっていた、なんてことにならなければいいなぁ、と思っている。

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