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深まり行く秋

人生100年なんてうそぶいた奴がいるそうだが私に限ってはそんなことはあり得ないことと思っている。
ベッドの上で100歳まで生きて何の意味があろうか、生きるって意味が分かっているのであろうか。

障害を持つ兄たちはいつも前を向き歩き行く。
ただ歩くだけだがその努力は並大抵ではない。
まだまだ元気に見える兄であるが、子どもの頃から多量の抗てんかん剤を服用させられ、内から見た身体は決して健康とは言えない。
そんな兄たちであるが、間違いなく日々を懸命に生きている。

それに比べ、健常という肩書きを持つ私たちは上から目線で実は一人で何も出来ないくせに、何の努力もしないくせに、ただ息をしているだけで100歳まで生きて何の意味があると思っているのだろう。

近くに障害者がいるくせに私はいつも視覚障害者の振りをしていた、いつも聴覚障害者の振りをしていた。
小狡い私はいつも格好だけを気にして生きて来たのだ。

でも、それは誰もが同じ事なのではないだろうか。
嫌なことは見えないようにする、聞きたくないことは聞こえないふりをする、それは人情とも言えるかもしれない。
見てしまえば、聞いてしまえば何かせずにはいれなくなる、これも人情だと言えるだろう。

しかし、真実は不動のままじっと私を待ち続ける。

秋が深まり行くと、考え事も深くなっていく。
そして、空気が冷たくなっていくと私の考え事は徐々に陰気臭くなっていく。
秋の青空の下、そろそろ冬型に変わる考え方に心構えしなければならない。

でも、私は冬が嫌いではない。
憧れるのは八代亜紀の『舟歌』の世界である。
港の見える窓のあるカウンターだけの酒場であぶったイカを肴にぬるめの燗を飲むのである。
沖の鴎に深酒させていとしのあの娘と朝寝をするかどうかは分からないが、そんな空間に身を置きたい。
冬は一人がいいかも知れない。
はやり歌など無い、時々聞こえるのは汽笛だけ、そんな酒場で一人酒を飲みたい。

お先にそろそろ冬にハマって、陰気に楽しく物事を考えていきたい。
なんだか矛盾する言い方であるが明るく冬を迎えたいのである。

深まり行く秋があり、忍び寄る冬がいる。
人生には巡り行く四季は無いがバラ売りの『春』『夏』『秋』『冬』はある。
不可抗力の『冬』が済んでしまえば残されるのは『春』、『夏』、『秋』しかないのである。

過ごし易く心踊る残された人生の季節に向かって邁進したい、秋の終わりにそう思っている。

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