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ふたたび許容量のはなし 母ハルヱ備忘録

昨日、許容量のことを文章にしていて、母ハルヱのことを思い出していた。
私が子どもの頃、まだ小学生の低学年の頃のこと。
母は市民病院に看護師として勤務、その時には精神科にいた。

当時の精神科病棟は当時の障害者の施設も同じであったが、行けば子どもの私にも悲しさが一番にこみ上げてくるような場所であった。
母の勤めていた病棟には入り口、すべての窓に鉄格子がはまっていた。
市民病院全体の白色と同じ白色の精神科病棟は人に見せまいとしているかのように目立たない隅にひっそり建っていた。

母は兄の将来のことも考えたからだろう、自分の仕事中に私を何度か職場に呼びつけた。
カギを持った母が出迎えてくれその入り口で用事を済ませて帰ってもよかったのだが、いつも中まで連れていかれた。
当時はまだおおらかな時代だった、だからそんなことが出来たのだと思う。
同僚の看護師さんたちからも快く迎え入れてもらい、大きなヤカンの味のしなくなったお茶を飲ませてもらった。

何度か行けば子どもでもそこはどんな場所かはわかってくる、中にいる幾人の人は私に興味を持って話しかけて来てくれた。
母と変わらぬ年代の方、祖父母の年齢に近い方が私をかわいがってくれた。
なんだか難しい対応は最初だけで『こういうものだ』と思って話の対応が出来るようになっていった。

そんな中、記憶に残るお婆さんがいる。
いつもお一人だった。
いつもテーブルに鏡を置いて化粧をしていた。
真っ白な顔をしていた。

ある日母に聞いたのである、どうしていつも顔を白くしているのかと。
若い頃ずっと仕事ばかりしてご苦労されていたのよ。
そしてある時とてもつらい事があったそうよ、と。
それからずっとここにいるんだと聞いた。

そして、母は私に言った。
「一生で塗れるおしろいの量は決まっているのよ」と。
当時、そんな単語は知らなかったが、許容量であった。
若い頃は働き詰めで化粧などすることも無かった、それを取り返しているんだと。
子どもの私には女性にとっての化粧がどんな意味を持つのかわからなかったが、なんだか切なくなったのを憶えている。

しかし、その話の真偽のほどは定かではない。
私の記憶のなかでは母はほとんど化粧はしなかった。
化粧水を使っていたくらいではないだろうか。
私の知らない娘時代に許容量を使ってしまったのかも知れない。
もともとその許容量がほかの人より少なかったのかも知れない。


このことをいつもおしろい花の咲く時期、特に黒い硬い種ができたら手に取って、つぶして思い出しています。
少し時期は早いのですが、昨日の気持ちを忘れたくなく、今したためました。

そしてたった今、母の遺品を整備していて古い口紅が出てきて驚いたことも思い出しました。
その時にもとても切ない思いをしました。

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