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人を投げる、人生を生きる

それは稽古の帰り道、
一人歩く夜道を誰かが背後から近づいていた。
いつもわかるのである。
そんな時は振り向いてはいけない。
そして、足元に目を向ければ黒い影が落ちていた。

今の若い稽古生たちに言っても自分の七、八の力を出すという事が難しいようである。
まずは自分の十の力を知らなければならない。
相手を投げるために十の力は使わない。
十ある力の七や八を使って人を投げるのだが、まずは自分の十の力を知らなければならないのである。
要は余力を残しておきたいのである。
そして、力は腕力だけではない、全身の力である。

子どもの頃の取っ組み合いの喧嘩は力一杯だった。
全身力の十の力だったと思う。
だから今、私には十が分かりその力の加減が分かる。
そんな事は武道、格闘技ばかりではないであろう。
生きる事もそうなんだろうと思う。
力一杯、精一杯生きてしまえば疲れるばかりである。
余力を残して生きなければならぬ。
世迷いごとの一つや二つが出るくらい余力を残して生きるべきだと思うのである。

合気道も人生もそんな事が分かってから面白くなるのではないだろうか。
少なくとも合気道はそうである。
女性が男を投げ飛ばしたり、体重差は関係無く投げ飛ばせるのはそんなこんなが腑に落ちた証拠である。
そこまで時間はかかろうともそこから合気道は面白くなる。

息子を社会に送り出し、介護で心砕いた両親は他界して、やっと人並みに自身の事を考えることが出来るようになった。
余裕無く走り抜けたなぁ、ってのがここにたどり着いての感想である。

でも、人生は上手くできている。
老齢である。
十の力は七、ハとなる。
ではその七、ハを全て使わなければ相手を投げることが出来ないのかと言えばそうじゃない。
七、ハのうちの七、ハでいいのである。
老練である。
十の時代から比べれば五や六の力で事足りるのである。

この事も人生、生きる事と同じであろう。
誰もが通る人生における経験で先が読めるようになり、徒労無くして生きて行けるようになる。
誰もがそうなる。
だから諦めなくていいのである。
格好悪くてもいい、開き直って生き延びればいいのである。

合気道の稽古は能動である。
世の中を生き抜けることは受動でもいいのかも知れない。
生きていること自体が能動であろうから。

そんな分かったような分からないような事を考えていると黒い影は私を誘おうと口を開きかけていたがやめてしまった。
それでいい。
「お前と話する事は何も無い。いや、今は無い。出直して来い。」
そう黒い影と会話した。


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