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夢のかず

冷たい夜ではあったが、コピー機を使いたくて近くのコンビニに行った。素面しらふでこんな時間に外を歩くことが無いので遠回りして帰ってみた。妙に月が明るくて知らない街を歩いているような気がした。街中にまだ残った田んぼの向こうに戸建て住宅が並び、駅にはタワーマンションがある。もうしばらくしたらここにはどれだけの数の夢が目覚め起き出すのだろうと思った。近接した家の中で皆がそれぞれ違う生活をしているが、ある時間帯はほとんどの人たちが夢を見るという同じ行為をしている。皆がそんな同じ行動をするのが不思議に思えるのである。考えてもどうもならないようなことを夜中の仕事を始めてから考える時がある。

これも考えてもどうもならない事なのであるが、高層マンションが私は怖い。実際お暮しの方がたくさんいらっしゃるから、私の独り言ひとりごととして聞いていただきたい。時間は今からさかのぼり28年前の阪神・淡路大震災の直後のことである。震災翌日の1月18日から着の身着のままで神戸支店に送り込まれた。得意先の支援が私に与えられたミッションであった。与えられた名簿の得意先役員やキーマンとなる人間のご自宅を一軒一軒訪問して困りごとを聞いた。その中で六甲アイランドのマンションにお住いの旧財閥系の生命保険会社の役員の奥様に「水をお願いしたいわ」と言われて水道の開通するまで半月ほど毎朝20リットルのポリタンクを二つぶら下げて13階まで運ぶことになった。もちろんエレベーターは動かないから階段を歩いてであった。今のマンションはどうなのだか知らないが非常にもろいものであると思った。まあまあ重いポリタンクは私に向かって「住む場所をよく考えろよ」とひとちたのである。

夢は夜見る夢ばかりじゃない。当時奈良郊外にある中古の戸建て住宅に住んでいた私は新築のマンションに移り住もうかと考えていた。鍵一つで管理の出来るマンション暮らしに夢を見ていたのである。しかし、そこで考えを変え、以来戸建て住宅ばかりに住んでいる。一時期だけ阿倍野の分譲マンションをサブリースで借りて住んだがたまたま当たりが悪かったのだろう、非常に変わった住人の下に住んでしまった。階下に私たちが住んでいるのに夜遅くでも子供たちを平気で走り回らせるのであった。たまりかねて私が訪ねるとどんな住人が住んでいるかを調べずにやってきた私たちが悪いと逆切れされた。
調べればその住人たちの住む部屋は上場する薬品会社の社宅扱いとなっていた。その会社の総務部に電話で事情を話すと直謝りひたあやまして、その一家はしばらくしたら転居してしまった。
住宅は簡単に買い直すことの出来る買い物ではない。そして住宅は私たちの夢でもある。そしてこの住宅に対する夢は住む人の数だけあるであろう。田舎のポツンと一軒家が私には一番の理想であり夢であるが、現状と老後を考えあわせると今の駅近の戸建てが正解かと思っている。でも、まだなんだかしっくり来ていない現状である。人の夢は変わるであろうし、夢が変わるから人の生活は変わっていくであろう。
そんなふうに思う今の現状である。


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