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こわいはなし

子どもの頃に人に話した怖い話である。
たぶん誰かから聞いた話だと思うのだが、記憶が定かでない。
あまり美しい話ではないからお食事前の方はご遠慮いただいたほうがいいかも知れない。

友人のアルピニストが経験した話である。
信州の山あいで育ち山のすべてを知る誰もが認める生まれながらの山男である彼が、ある日冬山で遭難した話である。

その日はいつも登ってすべてを知り尽くしていたその山で、あろうことに急な吹雪に襲われたそうである。
日は暮れつつあり前にも後ろにも進めない状態の中しばらく待って少し落ち着いたころに進み出したそうだ。
しかし、その時は辺りは真っ暗、下山はあきらめ近くにある山小屋をそれこそ手探り状態で探したそうである。

そして見つけて小屋の中に入れたのはよかったのだが、中には暖を取るためのマッチ一本すら無かったという。
山男の彼はまさかの天候の急変に備えてなく、火器の類は何も持ち合わせていなかったそうである。
それでも外にいるよりはましである。真っ暗な小屋の中で一夜を明かし下山することを決めた。

先が見え、気持ちが落ち着けば次に来るのは空腹感である。腹が減った彼は手探りで食料品を探したそうである。
そして、蓋つきの壺を見つけたそうだ。
蓋を開けて手で探るとどうやら地元で名産の自然薯をすりおろして保存しているようだった。
彼はそれで腹を満たし見つけた毛布にくるまって寝たそうである。

翌朝外はまぶしいほどの青空が待っており、やれやれと胸をなでおろし下山の準備を始めた。
そして、そうだ残りの自然薯をいただこうと小屋の中を探すが見つからない。

おかしいな、と思い再度小屋を歩くとそこに蓋つきの一つの『タン壺』をみつけた。

というのが、小学生の頃知った怖い話である。

しかし、それよりもっと怖い話を母から聞いたことがある。

昭和5年生まれの母は、十代から看護師として働き、晩年は障がいのある兄を連れて来いと言ってくれる理解ある理事長の病院で70過ぎまで看護師を続けた。
昭和20年8月の第二次世界大戦の終わりを母は長野県上諏訪にある日本赤十字病院の前身である海軍病院で迎えている。
当時戦地にいた兄、私があったこともない伯父貴に会いたくて志願をして試験を受けて入ったそうである。年をごまかして13の歳で奉職が決まり祖父は泣く泣く母を「お国のため」と送り出したそうである。
初年生であり、一番年下の母は雑用ばかりしていたと聞いた。
傷痍軍人の世話、空襲があると母は背負い、担いで避難したと聞いた。

母が一番つらかったのは結核病棟での世話だったそうである。
敗戦に突き進む最中だからなおさらだろうが、当時の海軍の船内は劣悪な環境で、栄養も足らず結核は集団感染したようである。
たくさんの傷痍軍人が布団に横たわり痰壺に血痰を吐き出し、それを捨てに行くのが母の仕事にあったそうである。
一巡する頃には痰壺になみなみと表面張力で膨らむ血痰を両手で持ちそっと捨てに行ったという。

私にとってこんなに怖い話は無かった。
母は従軍することなく終戦を迎えることが出来たので今ここに私がいる。
会ったことのない伯父貴が、私の生まれるたった15年前に東南アジアのどこかの海に無念とともに沈み、藻屑となった。

過ぎ去った時間は帰ってこない、死んだ人間は戻ってこない。
だから考えても仕方のないことかも知れない。
死んでいく人間とともに記憶は消え去り、聞いた私の記憶も薄れていく。
時間とともにすべての記憶は薄れていく。

だから、書き残さなければならないと思う。
そして私たちの子どものために未来のために、この先のことを考えなければならないと思う。

人間は忘れることが出来る。
考えてみればこれが一番怖い話かも知れない。



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