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牛乳瓶のフタだった頃

私がまだ牛乳瓶のフタだった頃、夏の暑さにはメリハリがあった。
朝の早い時間はまだ涼しく、ラジオ体操で倒れるヤツなどいなかった。
残り物の毛糸で母が首からぶら下げれるようにした体操カードを持って近所の公園まで行ったのである。
タケちゃんのお父さんが前に立って体操をしていた。
私たちは適当に体操をし、カードにスタンプをもらい、午前の待ち合わせを約束して家に帰り朝メシを食べた。

子ども達はランニングに半ズボン、ゴムのサンダルで野球帽を頭に捕虫網片手にセミ捕りに出かけた。
ニイニイゼミ、アブラゼミ、クマゼミが共存した。
小さくすばしっこく、美しいニイニイゼミが人気であった。
芭蕉のうたったあのニイニイゼミはどこに行ってしまったのか。
喉が渇くと、公園の水飲み場で交代で水を飲み、水を飛ばし合い、通りすがりのおばさんに怒られるまで水遊びをした。

口うるさい母の「涼しいうちに宿題を済ませなさい」という予言はいつも的中して、エアコンの無いあの頃、午後の茹だるような暑さのなか宿題はいつも後回しにして仲間と市民プールに出かけた。
二時間を目一杯遊びクタクタになって帰り道の緑の桜トンネルを抜けて家に向かった。
その頃にはエネルギーは尽きかけ、アブラゼミの鳴き声のシャワーは耳には入るが捕まえてやろうと言い出すヤツはいなかった。

そんな毎日を繰り返すことが私たちの夏休みだったのである。

その頃私達は牛乳瓶のフタだった。
倒せばこぼれる、落とせば割れる牛乳瓶の口をふさいでいた紙のフタだったのである。

親達は倒さぬよう、落とさぬように扱いはしなかった。
倒れれば外れ、落ちて割れればなす術の無いフタは毎回悔恨の念に駆られ、丈夫なフタになろうと考えたのである。
そんな経験はどんな時代にも必要なのではなかろうか。

この先一人で生きていくのがなお一層難しくなっていくように思う。
人と共に生きることも、人に頼って生きることも厭わず慣れて欲しい。
いつか一人で生きる力を身につけて、頼られるようになった時には力になって欲しい。
そのためにはまずは牛乳瓶のフタでいい。
無用の経験をたくさん積んで、悔恨と自省を積み重ね柔軟性のあるフタになって欲しい。
そして、自分が牛乳瓶のフタであったことを時々思い出し、いつまでもフタの気持ちを忘れずにいて欲しい。


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