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生きるためにやって来た仕事のはなし

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なかなか理想を仕事とすることは難しいもの、食べるため、生きるためにしてきた私のサラリーマン人生です
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#ゼネコン

ほたるのはなし

季節外れのはなしで申し訳ない。 暑い暑い夏の夜に飛び交う『蛍』のはなしである。 note の『傘わっしょい』さんの短歌が好きで、毎晩一首づつ読ませてもらっている。 その中にある昨年末の短歌が私の記憶の引き出しに手を掛けた。 短歌 壁ホタル 人感センサーライト センサーの狂ひし蛍のやうにしてわれはありなむたれからもひとり の『狂ひし蛍のやうにして』とセンサーを蛍に比喩されているのだが、たった一度だけのこと、それも生まれて初めてたくさんのホタルの群れに包まれたことを思い出

一枚の年賀状で思い出す

その年賀状の主である女性はもうとうに80歳は越えていると思う。ご主人の告別式で一度会ったきりである。あれから届いた年賀状は20枚近いと思う。以前ここで軽く触れたことがあると思う。この年賀状の主のご主人と私は同じゼネコンにいた。生前のご主人は東京本社営業部の所属だった。そしてその頃に私は面識は無かった。私は辞めて5,6年経った頃、大阪の私鉄の設計事務所にいた。ある日そこに京都営業所で大変世話になった営業所長だった元上司、その時は大阪の副支店長だった方が訪ねて来てくれた。京都で贈

変わらぬ友と変わり行く運送業界

私のゼネコン時代の友人の話です。 彼は建築屋です。 私がゼネコンで最後に営業した京都府下の知的障害者施設の建設現場の責任者でした。もともと工期も工事費も足らない工事を無理して受注しました。私の知的障害者の施設建設をしたいという強い気持ちもあって受注に至りました。 しかし予想されたように突貫の大変な工事となりました。 彼はまだその時、30過ぎで立場は次席でしたがすべてを取り仕切り竣工させてくれました。 竣工直前に私は会社を辞めました。1兆円の債務を抱え、会社はその債務放棄を銀

生きるためにやって来た仕事(そこで出会った人たち その5)焼うどんの思い出

ゼネコンに入社して二年目ぐらいだろうか、まだ右も左も分らないまま建設業の事務に頭を悩ませていた。 そんな時である。 やっと『半ドン』の制度が会社にもやって来た。 今のお若い方はご存じないだろう、今のような週休二日などまだ夢の話の時期に、世の中の多くの会社の土曜日の営業は午前中だけになったのである。 8時半に始業の会社だった。午前中の三時間ほどでやれる仕事は限られている。身の回り、机の引き出しの整理などしていた。皆、この半ドンを楽しみにしていた。 いつもより丁寧に女性社員が

生きるためにやって来た仕事(そこで出会った人たち その4)

実はこの話、私がnoteにやって来てまだ間もない昨年2月に記事といたしました。 その時おひたちさん、きゃらをさん(あいうえお順)から初めてオススメをもらい、大変嬉しかったことを記憶しています。 仕事師には分かってもらえるなぁ、と一人悦に入りました。 モーレツな上司の営業部長は大阪支店のみならず、会社を代表する建築作品をいくつも世に残す営業をやっています。 それをすべて自分一人の力だと人に知らしめたい、そんな薄っぺらなところがあったのです。 それをせずとも、言わなくともその部

酒を飲み考えていること

この男、よく酒を飲む男である。 しかしながら以前からただ酒を飲む男ではなかった。 まわりの話をよく聞く。 厨房の店員の動きや板場の調理人の手さばきを見る。 酒を味わい、料理を楽しみ、季節の移ろいを感じながら人生の縮図を感じとって酒を飲むのであった。 昨日も飲みながらいろいろ考えていた。 この男の付き合いは濃い、とことん付き合う。 だから、裏切られることも少なくはなかった。 無駄に時間を過ごしてしまったことに悔いてはいたのだろうが、裏切ったわけではないからそれでよかったと頭の

生きるためにやって来た仕事(そこで出会った人たち その3)

建設業界で30年以上メシを食わせてもらって来た。 ゼネコンでの営業10年の最後の一年間だった。 京都営業所に事務時代を含めて二度目の赴任、片道切符で大阪支店から出された京都営業所の所長は百戦錬磨の黒い噂のある所長だった。 しかし付き合ってすぐに多くを語らぬことにそんな噂のもとがあることは理解できた。 私は自由に動き回り、その所長に好きなように仕事をさせてもらった。 中国地方の営業課長から「ここで世話になっている社会福祉法人の理事長が兼務している京都の衛星都市の障害者施設で

生きるためにやって来た仕事(そこで出会った人たち その2)

長い前段、その時どういう時代であったか 一昔前のゼネコンの世界、建設業の世界は古い体質のもとに成り立っていた。 第二次世界大戦後、敗戦国の日本、あちらこちらが焼け野原だった日本を復興させ、世界経済の中心にまで登り詰めるには建設業の存在はなくてはならないものであった。 破壊されたインフラの整備、経済大国日本を目指し各産業を育てるには発電のためのダムも、物流のための高速道路や鉄道もそこで働く人たちが安心して住むことの出来る住宅も必要だったのである。 昭和60年(1985年)、

ゼネコンがあんがい昔からSDGsだった話

この話はフィクションであり、事実に基づくことの無い架空の話です。太郎の育った業界 ゼネコンとは総合建設業、『General Contractor』の略です。 建築、土木はもとよりそれに伴う資機材の購買から新開発まで、そして一連に携わる『人』の育成まで行う建設を一から十まで考え行う業界です。 そしてこのゼネコンは世間が今ほど『サステナビリティ』なんて言葉をもてはやす以前からそんなことを考えながら仕事をしていたのです。 太郎は何も知らぬままにそんな世界に飛び込み自身の半生を

生きるためにやって来た仕事(そこで出会った人たち その1)

ゼネコン時代、二度目の京都営業所での思い出である。ここで出会った所長には多くのことを教えてもらい、多くの人に会わせてもらった。 発注者、受注への協力者、協力業者(下請業者)、そして多くの発注者となるかもしれない人たちに会わせてもらった。 一つ仕事を受注するのに登場人物は多い。 そして、仕事を受注するたびに付き合いは増えていくのである。 その所長の大阪支店での噂は良くなかった。 「仕事は出来るが、、、」 と言うのが多かった。 しかし付き合ってよくわかった。 余計

昭和のおもひで

故ドナルド・キーンに捧げる(ごめんなさい) 食べることが好きで、料理が好きで料理を食べている人が出てくる本をたくさん持っていた。 レシピ本が好きなわけではない。 食関連のテレビ番組も好きで時々みる。 大食いや無理食いは好きではない。 NHKの『サラメシ』を時々みる。 ちょっと前の『サラメシ』に日本に帰化した故ドナルド・キーンが登場していた。 すごいアメリカ人だなぁ、と思いながら三島由紀夫について書いている本を読んだことがある。 大学時代、練馬の陽当たりの

酒を片手に考えた

ゼネコンの営業マンだった私は毎朝『日経新聞』を片手に満員電車に飛び乗って会社に向かう生活を送っていた。 普通のサラリーマンを辞めた今も日経が気になる、一年ほど前から電子版に変えたが、、 3月11日で東日本大震災から10年を迎える、日経がこれまで行われてきたインフラ整備の検証のような記事を書いていた。 これまで37兆円が投じられ、被災の中心となった岩手、宮城、福島三県での県内総生産は全国平均より高くなった。 まだ原発の大きな問題が残っているものの、インフラ的にはかなりの

この世から無くなって欲しくなかったもの  『半ドン』

このピンボケ写真は私が初めて社会人となったゼネコンの京都営業所の事務所内、1985年昭和60年のものである。 パソコンは無く、電話は共用で、伝票帳票での経理処理が当たり前だった。 もちろん携帯電話なども登場する前だった。 『半ドン』、この死語と化してしまいつつあるこの勤務形態は当時の私には嬉しく、わくわくする待ち遠しい時間であった。 高度成長期は終わり、世の中は安定してバブルに向けて時間は動いていた。 仕事は忙しく事務所の3階にあった寮の自室に夜10時前に戻れること