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映画ドラえもんレポート『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』

Abstract

 ドラえもんの具体的な内容は避け、私からは気になったテーマを「ディストピア的な人間-機械の構図と人間と機械の共存」、「パーフェクト小学生とダメな人間」の2点について検討する。補講として「天気雨とタイムワープ」にも触れる。

ディストピア的な人間-機械の構図と人間と機械の共存

 この映画ではユートピア(本作ではパラダピアと呼ばれる。以下パラダピアとする)は心を失った人間を支配することで争いもなく飢えることもないという形で描かれていた。これに人間-機械の構図が見て取れる。

 パラダピア)は黒幕のレイ博士が世界をよくするために人々を洗脳し支配できるライトを開発するために作られた空島だ。400人ほどの人間が空島で平和に暮らしておりそれは今の世界ではできないような科学技術によって支えられている。空島の人間は技術をうまく使い生活できるようになっている。しかし、「人間の記憶をスキャンするマシン」「洗脳具合を示すマシン」「人間を洗脳できるマシン」、これらのようなある種人間の手に余るような機械が生み出されたことで空島の人々は利用する側ではなく機械に利用される側になるのである。黒幕にはレイ博士という人物がいるため、実際には人間による犯行となる。つまり特定の人間が少し方針を変えることでパラダピアはディストピアになってしまったわけである。これはAIのバイアスにも通じるものであろう。AIのバイアスとは、ただの計算機上のアルゴリズムのはずが学習用意したデータの偏りによってAIが差別、バイアスを持ってしまうことである。日々加速するAI、情報技術の進化にのっぴきならぬ不安を覚えている人も少なくないだろう。

 この物語は当然のことながらのび太たちが打ち勝つことになる。ただしのび太たちが勝つこと=「AI、情報技術の進化に対するアンチテーゼ」では終わらないところにこの作品の面白さがあると考える。そもそも『ドラえもん』は何をやってもうまくいかない(昼寝、射的、あやとりは除く)野比のび太という少年と彼のもとに未来からやってきた猫型ロボットドラえもんが織りなす日常をテーマとした漫画作品である。ドラえもんはポンコツだと言われながらも毎度面白い秘密道具を出してくれる。中には「バイバイン」や「地球破壊爆弾」といった危険なものもあるが必ず何らかの気づきを読者に与えてくれる。またドラえもんが現れたことでのび太の人生はより刺激的に豊かなものになっただろう。ドラえもんという未来のロボットは人と上手に共生しているのだ。このことを踏まえるとこの映画は合理的な人の支配とそれに対するアンチテーゼではなく、その先の人と機械の共生した世界の可能性を示唆してくれる『ドラえもん』らしいテーマだったと言える。

パーフェクト小学生とダメなのび太

 のび太のセリフで「パーフェクト小学生」という言葉が登場する。のび太はパーフェクトでなければという強迫観念じみたものに迫られていたように見受けられた。パーフェクトであるためにパラダピアに住みたいと言い出すのだ。

 現在の学校の批判においても何でもできるような人を生み出そうとしていると言った趣旨の批判を受けることがあるようだ。おそらく間違いではないのだろうと思う。しかしのび太も同様の被害者だと言い切ることはできない。それはいささか性急すぎる。その理由はこの映画はパーフェクトを目指させる何かに対する批判ではないからだ。それを示すようにのび太の両親がのび太の帰りを心配する描写があったり黒幕もダメだと責められる世界を変えることがパラダピアを作る発端であったりする。どれものび太を追い込んだ要因であるはずであるのにだ。パーフェクトであろうというのは錯誤しているが、結果としてパーフェクトを目指されるという形では間違っていないのだろう。そのもとに皆をしてのび太を追い詰めてしまった。その描写にに身を摘まれるような思いであった。のび太は最終的にパーフェクトではなくダメなところを愛そうと宣言したがこれは観客にも同様に突きつけられたものだったのだろう。

天気雨とタイムワープ

 これは私が関心したシーンだ。パラダピアは外敵から身を守るためバリアを装備している。それは液体状のもので、バリアを外す際に劇中パラダピアの隙間に流し込み収納されるシーンがあった。その時は液体状のものを使うことで場所を取らずに開け閉めができるというのは面白い仕組みだなと感じた。それがまさか伏線だったとは。映画冒頭に執拗に雨が描かれるシーンがある。雨の細かさに感動したが、その雨こそが映画最終幕で壊れたパラダピアから流れる液体状のものであったのだ。またのび太たちが初めてパラダピアに到達した際に夜の間パラダピアはバリアを外し宇宙線を用いてエネルギー確保しているとの説明がされていた。そうすると、通常のび太がパラダピアを日中に見ることはありえないはずである。映画冒頭、のび太が見たのは日中パラダピアがバリアを外した瞬間である。この時点でその後の天気雨がバリアを構成するものであり、最終決戦の場はのび太の街の上空であることは予想可能となっているわけだ。これに気づいた時呆気に取られた。

小結

 以上、特に気になった3点についてまとめた。社会的な悩みを全く『ドラえもん』らしい回答をしていくことが見て取れ年甲斐にもなく楽しくなってしまった。またこれだけ聞くとドラえもんらしからぬかもしれない。それも踏まえてだろうか。最後、暴発した部品が落ちてくる。その中にはソーニャ(暴発寸前の四次元ゴミ袋を抱えて自爆した)のメモリが落ちてきて助かるかもしれないと喜びを分かち合った後のび太たちは日常に戻るのだ。「元同りの日々に戻るのだ」と。そうしてのび太のママのところにも最初物語の冒頭で四次元ゴミ袋に捨てた0点の答案が落ちてきた。のび太は怒られる。先ほどまでのドラえもんにそぐわない展開や映画版ドラえもんの凛々しい感じも捨て去り全て元通りになったと視聴者にも感じさせる展開となっている。

謝辞

思うままに書き綴ったため、ところどころに誤謬や齟齬があるかもしれないが勘弁してもらいたい。また気が向けば訂正しようと思う。ここまで読んでいただいたことには感謝したい。ありがとう。

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サムネイル:「映画ドラえもん」製作委員会より

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