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倫理観は相対的なものか?~人それぞれの罠~


倫理観とか道徳観念とか人それぞれなんだから結局意味ないよ。このような諦観に似た意見はたまに聞く。たしかに価値観というものは人それぞれな面もある。

しかし、倫理観は人それぞれというのはどういう意味で言っているのだろうか?


人それぞれとは

A「今日もまだ暑いね~」
B「いやもう涼しくなってきたよ」

このような会話に遭遇したことは誰しもあるだろう。このときAとBの意見は食い違っている。ではどちらの意見が正しいのか…いやどちらも正しいだろう。
このような気温に関する判断は(少なくとも常識の範囲の気温なら)人それぞれであることを私たちは経験から知っているからだ。

他にも「重い↔軽い」「高い↔低い」「長い↔短い」などは主観的な判断によるところが大きくどれも人それぞれ感じ方は違うと言えそうだ。
(トンデモなく重いもの(たとえば中性子星)トンデモなく高いもの(火星のオリンポス山)を持ち出さない限りそれをどう思うかは人それぞれのはずだ)

A「授業中眠くて眠くて時間長く感じたよ」
A「ずっと気になってたゲーム夜通しやってしまったけど時間短く感じたな」

時間の長さも主観的に変わり得る。しかし、先程のAとBと違い今度はAひとりについて時間の長さの感じ方が状況によって異なるという事例だ。
これは先程と同じように主観的な判断だが人それぞれというわけではない。
そこでここからは人それぞれに替えて主観判断は場合により変わるという意味で相対的という言葉を使うことにする。相対的な判断は人それぞれであるだけでなく同一人物のなかでも状況によって異なり得る。



倫理観とはそもそも何か

私たちは普段から「嘘をついてはいけない」「人を殺してはいけない」のようにある行動を禁止したり「困っている人は助けるべきだ」のようにある行動を義務付ける。

またはある行動に対し「盗みは悪い」「親孝行は良い」のように善し悪しを語ることもある。

このように人のある行動を決定するような判断規範$${\bold{^{*1}}}$$という。そしてこの規範的判断のことを倫理観という。

この倫理観は特に現代日本では人それぞれであるように考えられがちだ。では本当に倫理観は人それぞれなのだろうか?

相対主義は事なかれ主義

現代人はできる限りトラブルを避ける傾向にあるためか倫理観$${\cdots}$$私たち自身の主張どうしがぶつかり合わないように、「〇〇はいけないっていうけど、道徳基準は人それぞれだからね」などと言って避けようとする人が多いように感じる。

しかし、倫理がもし客観的に判断基準があるなら、「客観的にみても悪いといえること」を人それぞれだからで回避するのは明確に誤りになる。

客観的な判断基準があることを相対的な判断に対して絶対的ということにする。するといま聞かれているのは「倫理観は絶対的なものか」だ。これを精査せずにただ倫理観は相対的なものだから本当の答えなんて無い、のように突き放すのは事なかれ主義と言われても仕方ないと思う。

倫理観は相対的と捉える立場を相対主義、倫理観には絶対的基準が存在すると考える立場を絶対主義という。



倫理観が「相対的」である理由

倫理観を人それぞれという際、次の3つの観点が挙げられる

  1. 倫理観は個人個人にとって相対的

  2. 倫理観は国や文化によって相対的

  3. 倫理観は状況によって相対的

順番に本当に相対的と言えるか見ていこう。

1.倫理観は個人個人にとって相対的

先程見たように私たちの主観による判断は人によってたしかに異なりうる。
たとえば「この作者の作品好きなんだよね」という意見にそれは間違っているというのはいくらなんでも辛すぎる。好き嫌いの判断くらい人それぞれにさせて欲しい。

しかし一方で、目の前で詐欺の被害に遭いそうな老人を見かけてその詐欺を防ぐようならケースは無条件で良いことのように思える。

あるいは突如街中で何もしてないのに暴行を加えられた場合その行為を悪いと断定することに躊躇いはないだろう。

このように少なくともいくつかの道徳的事例においてほとんどの人が判断に困らない事例を思いつくことができる。

したがって少なくとも個々人の倫理的判断はいつも相対的というわけではないことが言える。

2.倫理観は国や文化によって相対的

倫理観が個人個人に相対的という意見に反対しても、もっと広い範囲である国や文化については倫理観が異なって当たり前だと考える傾向はより強い。

このように国や宗教、あるいは時代背景により文化は相対的になるという主張を文化相対主義という。
文化相対主義では文化はすべて対等であり、その文化に属さない人が異議を唱えることは越権行為とされる。

確かにある宗教で豚肉を食べてはならないとしていても日本人は豚肉を食べることができる。
またはとあるイスラム教の国ではブルカの着用が義務づけられているが日本では別に義務付けられてはいない。

あるいは古代ギリシアや戦国時代の日本において男色は文化的行いであったが19世紀のイギリスにおいては男色は犯罪であった。

このように文化的差異により倫理観は異なり得る。しかし本当にすべての倫理的判断が分化相対的なのだろうか?

これには以下の2つの反論ができる

違う文化どうし互いに反する主張をするときどちらの意見も真に対等であるか?

これは次の事例が考えやすい

ナチスヒトラー政権においてユダヤ人の大量虐殺は完全に当時のドイツの文化的規範に従った行いである。文化相対主義の立場から考えるとこの大虐殺は当時(WW2下)のドイツ人でない人は批判できない。

もし文化相対主義が正しいならすべての文化は対等であり、どちらかがどちらかを糾弾する資格を持たない。
しかし、私たち(の文化圏)は歴史的な誤り(ホロコーストや黒人奴隷制度、あるいは太古のイケニエの文化など)は正すべきだと思うし、その信念は正当化されるように感じる。そしてその信念はおそらく普遍的(文化に縛られない)であるはずだ。

ある文化圏内に属する人がその文化に懐疑的である場合どうすれば良いのか?

これも事例から考えよう

16世紀スペイン文化圏において、新大陸のインディアス(ネイティブ・アメリカン)を征服するのは正当化されていた。しかし、同じく16世紀のスペインドミニコ修道会のラス=カサスはこのインディアスたちの征服は非人道的としてスペイン王に告発したのだ。

世界史の窓,[ラス=カサス]

このように、ある文化圏においてもその文化自体が間違っているかどうかを問うケースがある。

もし文化相対主義が正しいとしても各々の文化自体で批判が可能ということだ。そしてそのような批判はおそらく文化に縛られず普遍的なものになるのではないだろうか?


①,②より文化相対主義が正しいなら、その世界ではホロコーストやネイティブ・アメリカンの強制労働のように今日では一方的に悪かったと考えられていることすら糾弾できなくなってしまう。

(ただこの問題は些かセンシティブな問題であるため歴史的な修正ばかりに焦点が集められがちに感じる)

3.倫理観は状況によって相対的

この相対的は1人の人物の中であっても状況によって倫理観が異なりうるというものだ。

有名な思考実験の「トロッコ問題」で説明しよう。

トロッコ問題には次の2パターンがある


第一のパターンではあなたはトロッコの操縦士で今線路の分岐点にいる。このまま進めば5人を轢き殺してしまうのだが、トロッコの進行方向を替えれば今度は1人を轢き殺してしまう。1人と5人どちらを選ぶべきか。

第二のパターン、あなたは線路の上の橋に立っている。すると暴走したトロッコが進んでくるのが見えた。このままトロッコが進めば線路上の作業員5人は死んでしまう。ところであなたの横には太った人が同じく橋の上からそれを眺めていた。
ちょうどこの太った人を突き落とせばトロッコを止められることが分かっているとき、あなたは突き落とすべきか?ちなみに太った人は突き落とされれば死んでしまう。

第一のパターンはほとんどの人が5人より1人を選ぶに違いない。$${\bold{^{*2}}}$$
しかし第二のパターンは概形としては第一のパターンと同じく1人か5人かを選ぶ問題であるにも関わらず答えに詰まってしまうことが知られている。

このようなとき、同じ人があるときは1人を迷いなく轢殺するのにあるときはそれを躊躇うという状況が生まれてしまう。故に倫理観は相対的だ。

もちろんこれは誤りだ。トロッコ問題はよく功利主義と義務論の対立$${\bold{^{*3}}}$$と表されるが、功利主義にしろ義務論にしろ倫理的主張としては絶対的な基準を持っていると言えるからだ。

この思考実験で重要になるのは状況によって判断が異なり得る=相対的ではなく、第一のパターンと第二のパターンに共通するのはどのような規範意識なのかを調べることである$${\bold{^{*4}}}$$。



すべての倫理が相対的というわけではない

倫理観が相対的である理由として1.〜3.を見てきた。たしかに、それぞれ相対的な人それぞれ(/文化によって異なる/状況によって異なる)場合も存在するだろう。

しかし、見てきたようにそれらを単に相対的とすると、私たちの直感に従わない例をいくつも発見することができる。

つまり、規範的事例にはにはすくなくとも普遍的な、人それぞれとは言えないような、絶対的規範が問える場面が存在する。

したがって、「倫理観は人それぞれだ」とは単純には言えないことがわかった。

仮に相対的な部分があるからといってどれが相対的になり、どれが絶対的になり得るかを考えることは重要で、そこからしか議論は開かれないように思う。

単に何がよくて何が悪いかは人それぞれだからというのは思考停止に過ぎないように思う。



脚注

*1;例えば「〜が好き」のような主観は他人の行動を禁止したり自分の行動をなにか義務を持って律することを意味しない、普通の価値判断である。「禁止」「許可」「義務」などが規範的判断にあたる。
また「よい」「悪い」「正しい」「間違っている」などの語も規範と呼ばれることがある。一面的には「善悪」や「正誤」はただの価値判断であるが。
盗みをするのは悪いこと↔「盗みをすべきでない」
困っている人を助けるのは正しい行い↔「困っている人は助けるべきだ」
という翻訳の関係にあるため、これらの価値判断は規範語の一種といえる。

*2;日本のネット上でよく知られたトロッコ問題は第一のパターンばかりを重視しているように感じる。もちろんトロッコ問題は世界的に人気のある思考実験であり、「トロッコ問題」を考える学問分野も出現している(そこでは第一のパターンについても様々な条件を変えて思考実験が行われている)。
しかし、本来のトロッコ問題は第一・第二のパターンを通してみると意見が食い違う人が多いという部分が重要な思考実験であることまでは知るべきだと思う。

*3;義務論とはカントに始まる倫理の一立場で無条件で「〜せよ」となるものは普遍的に善いこととする立場である。逆に「〜してはならない」は普遍的に悪いことである、とされる。
功利主義とはベンサムの言うように「最大多数の最大幸福」を目指す立場である。何が幸福なのかは意見が割れるところだが、トロッコ問題などでは単純に生きている人数が多いことが重視される。

義務論と功利主義は対立しやすい
例えば;

カントの義務論においては「嘘はついてはいけない」は定言命法である。

今、ナチスの憲兵に追われたユダヤ人があなたの家を訪れ匿って欲しいと言った。そのユダヤ人を匿った後ナチス憲兵が訪れ、この家にユダヤ人が来なかったかと聞いてきた。もしあなたが嘘をつけばユダヤ人は助かるが正直に話せばこのユダヤ人は強制収容所に連れ去られ死んでしまうだろう。
それでもあなたは「嘘をついてはいけない」を守らなくてはならないのか?

嘘をつかなければユダヤ人が死んでしまうとすればこの場合、最大多数の最大幸福は嘘をつくことになるだろう。

*4;義務論にも功利主義にも還元できない事例が存在し、さらに他の立場にも還元できないなら状況によって異なる倫理的基準を持つ必要があることになる。このような立場を多元主義という。つまり、倫理的基準を決める原理は複数個存在してよいという立場だ。

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