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写真について

 写真とは、あらゆる被写体を映し出すものである。また、それと同時に撮影者の姿がありありと映し出されるものであると私は考えている。写真は自分から見えているものを切り取るメディアであり、撮影者の姿などどこにも見えないだろうと思うかもしれない。しかし、撮影された写真には確かに撮影者の姿が鮮明に映し出されているのである。
 それはいったいどういったことなのか、詳しく説明していこう。我々は撮影をする際に被写体とコミュニケーションを行うことになる。それが美しい森林の風景であっても、美味しそうなリンゴであっても、見知らぬ犬でも、親しい友人であっても、コミュニケーションを行いカメラに収めることになる。どういった角度なら被写体をより魅力的に写せるか、どのような光量で行うべきか等の他、物撮りであれば実際にその被写体に触れて質感を確かめてみたり、人物撮影であれば、その被写体と自分との距離感を考えたりである。動物や人物以外のものを被写体とする場合は、コミュニケーションはおおよそ一方通行になりがちであるものの、撮影者の心境や美学は如実に表されている。また人物や動物を撮影する際には、我々はその被写体と相互的なコミュニケーションをすることとなる。そして、その撮影者と被写体との緊張感や弛緩、また関係性や自分と被写体の間に渦巻いている空気がダイレクトに写真に反映されるのである。今回はその被写体とのコミュニケーションの様子や関係性がどう写真に作用するかを自分の撮影した周囲の人物を例にとって説明していく。

 まず、iPhoneで撮影した何気ない写真(図1)である。私は人物を撮影するのが好きである。その理由としては、撮影した写真を見返すことにより、単純に当時のことを思い出すだけではなく、自分と相手の関係性が見て取れたり、その被写体達の普段気づくことのない表情を収めることが出来たり、魅力を引き出すことが出来たりと被写体達の新たな一面を見ることが出来るからである。また余談ではあるが、私の周囲の人物を撮るのが好きな人々は、友達が多くコミュニケーションが好きなタイプが多いようである。そして、その人々の写真の中の人物はとても魅力的な表情で写っているのである。そういった表情を引き出せるようなコミュニケーションや関係性が築けるのである。それは長い付き合いだからこそ引き出せる表情ではなく、その人たちの人に対する接し方や気持ちが撮影時のコミュニケーションに表れており、彼らは初対面でも被写体の魅力的な表情を引き出しているのである。さて本題に戻るが、この写真には疲れているともリラックスしているとも随分と素の姿の友人の姿が映っている。この友人とは最近は会っていないが、互いの作品を協力しあったりと仲が良かった。それもあって随分と素の表情が撮れている。初対面でこの表情を撮影するのは相手が撮影に相当慣れているモデルなどでなければ中々難しい。そのため、この写真は被写体と撮影者の友人ならではの関係性が強く表れているものとなった。

 また、写真の練習で友人に付き合ってもらった際の写真(図2)は、図1の写真より距離感が遠く、堅い印象がある。これはまだ会う回数が少ない友人であり、近づいて撮るのに少し気が引けてしまい、互いに対する緊張感があるといった非常に個人的な情報が画面から伝わってくるのではないだろうか。この写真においても写真から被写体と撮影者の関係性を映し出し、その結果、撮影者の姿も映し出すものとなっている。

 次に、人物としての美しさを探った写真(図3)である。この撮影ではいかに人を美しく撮れるかについて考えていた。様々な部位や角度や光量を試し、最終的に耳の造形にクローズアップした。この写真は図1、2のものとは違い、被写体は大きく映っているが、それ以上に撮影者の何を美しいと思うかといった、美についての考え方の思想が前面に出ており、撮影者の内面が写真に表現されていると言える。

 さて、3つの写真の例を見てきた。どれも被写体だけではなく撮影者自身が大いに映し出されていた。今回の写真では、関係性が見えてくることによって撮影者の姿が映し出されるケース、被写体をどのように写したら美しいかこだわることによって、撮影者の美学や内面が映し出されるケースがあったが、他のパターンもまだまだ沢山あるだろう。私自身が撮影しながら強く感じたことは、写真には撮影者の被写体と向き合っている時の心の状態や感情が全て表れているということである。また、何気ない写真においても、何を美しいと思うかという撮影者の美学が自然と写真に表れるのである。また、映像を撮影した際はさらに写真よりも被写体との距離感や空気感が伝わるようになる。もっとも、写真や映像だけではなくドローイングの線一本や彫刻の一彫りにも、どのような制作物にも作者の内面は現れる。もっと言えば、制作物と意識しない手書きの文字や料理にも作り手の内面が見えてくるのである。

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 例えば隣を歩く「きみ」を見つめるとする。生きていることを確かめる。カメラに収めてみる。「きみ」から送られて来た環境音や写真が確実にデータとして残っている。データ上に「きみ」は存在しているということだ。紛れもなくそこにある。データとして変換されてそこに存在している。「きみ」が映像撮影されたとき、確実に現在の「きみ」は死んでいる。今現在フィルムで収めた「きみ」より若い「きみ」は居ない。過去を収めて一秒前の「きみ」は死んだ。しかしそれはデータとして残っていて見ることが可能である。このようなデバイスが発達する前は過去の生きていた「きみ」や他の人々を遡って「見る」ことができなかった。「見る」ことを、信じている。ここには肉声、肉筆、情景、音景がある。その場所にあなたは存在しなくても、私たちの頭の中に記憶され、メディアに記録されている。我々が一人一人持つ肉体という有機皮膜における嫌悪感と憎悪感はおそらく文化の変遷期によるものだろう。


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