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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||をみて思うこと

遅ればせながら、公開3週後にシン・エヴァ完結編を映画館で観ることができた。TV時代から、永年の(そんなに深くはないけど)エヴァ・ファンとして、公開直後に観られなかったことは、もちろん日々の暮らしの中でのスケジュール的な問題はあったけれど、どこかで、「観たら終わる、終わってしまう」という焦りのようなものと、敢えて、見ることに強く意識を向けないことで、この、永年の自分の中でのエヴァ問題に決着を付けたくない、そんな無意識も働いていたかもしれない。

観終わって、率直に思ったこと。

「ああ、終わったんだ、、、」

エヴァという一つの現象、世界、思想を無事に終わらせた、そんな明確な意志を感じる終結の映画だった。

ストーリーそのものの解釈や、伏線の回収、謎解きなどは、私はそこまで詳しくないし、そこを敢えて突き詰めようとしてもできないし、そうしようとも思わないが、「エヴァを見続けて、見終わって、(あるひとりの)人間がどう感じたか」ということを、私個人という人間の気持ちの動きを通して、この世に発信したいと思い、今回筆を執った。

エヴァが終わった。

そのことで、私自身の「何か」も、このエヴァが終わることで、終わったしまった、そんな風に率直に感じた。

私が初めてエヴァを観たのは、ちょうどシンジたちと同じ、14歳~15歳のとき。うちの地方ではリアルタイムで見られなかったので、録画していた同級生からビデオを借りてみたように思う。中学の運動会では、特大の綾波の看板を作り、陣幕みたいにした。(そういえば、言い出しっぺは私だったなぁ、、)綾波のジグソーパズルを作ったりもしてたなぁ、、

とにかく、「得体の知れない圧倒的な世界観」。言葉にするとチープだけれど、当時の何の思慮深さもない中学生にとって、エヴァという世界観は、誤解を恐れずに例えるなら、強烈なドラッグのような、衝撃と吸引力、依存性を持っていた。

「死海文書」「使徒」「リリス」

蠱惑的な響きを持つ、何かはわからないけれど、奥の深そうな、世界観。

前半のヤシマ作戦頃までは純粋にワクワクドキドキ楽しんで見ていたが、この物語の根底を貫く神話的世界観や、人間の存在、精神をどこまでも真っ直ぐ見つめ、抉り出すような内容に、当時思春期真っ只中、まさに中二病の私はそれこそ「崇拝」するような心持になった。

それから、高校、大学、社会人と、繰り返し見ては、TSUTAYAから劇場版のビデオを借りてみたり(よくわからないなぁと思いながら)、もちろん映画館にも行ったりして、すべての作品を見ている。

旧劇場版の終わり方は、謎多くはあったけれど、一つの終わりとしては、それなりに成立していたと思う。けれど、旧劇の終わりを観ても、「自分の中で何かが終わった」という感想は湧かなかった。

エヴァに心酔はしていたけれど、シンジたちが14歳のときのままで終わった形では、自分も、同じ14歳の気持ちのままの感想しか持てなかったように思う。

どんどん自分が歳を取り、ミサトさんの年齢やそれこそゲンドウの年代に近づいていっても、自分の中のシンジたちはずっと14歳で、だけれど、シンジたちと自分の年齢が、年々開いていく、という感覚はなかった。私自身の中で、私自身が、ずっとシンジたちと同じ精神年齢を保っていたんだと思う。

エヴァがおわらない。

そのことで、私の(少なくとも)一部は、子供のままでいられた。それに疑問を持たず、ある意味、そのモラトリアムな状態が心地よかったのだろう。

現実を直視しない。けど、けど、と現実を否定し続ける。

それでもいいんだ、と、エヴァという私の中のパラレルワールドは、私自身の心の未発達、引きこもりを肯定してくれていた。

けれど。

今回、庵野さんは、きっちりと、物語を終わらせてくれた。

シンジたちに語らせているように、「落とし前は自分でつける」

そんな気持ち一心だったんじゃないだろうかと思う。

エヴァという社会現象、そんな、マクロな社会での影響ではなく、エヴァという物語を好きで、熱中して、心酔して、のめり込んできた観客一人ひとりに対し、影響を与えた創始者・教祖的存在として、けじめをつけなければ。そんな責任感を全うしたんだと思う。

けれど、この「けじめをつける」行為は、もちろん、観客のためだけではなく、庵野さん個人にとっても、深く、心を癒し、落ち着かせるために、必要なことだったんじゃないかと思う。

ロシアの文豪ドストエフスキーなどは、半狂乱になりそうな自分の精神を落ち着かせるために、長大な物語を書き続けていたとも聞く。

結局、庵野さんが見せ続けてきてくれたのは、庵野さん自身、なのだ。エヴァンゲリオンという世界は、庵野さんの精神世界そのもののことなのだ。

NHKのプロフェッショナルの中でも言っていたが、庵野さんは、自らの魂を削って、作品を創って来たという。

魂を削るということ。

一人の人間の精神を、主観と客観の危うい対話を繰り返しながら、自分自身が見つめ続けて、それを形にして、世の中すべてに無防備にさらけ出す。

なんて怖いことをやってきたのだろうと、畏怖を感じざるを得ない。

あいみょんの詩じゃないけれど、裸の心、それを、世界中の人たちにさらし続ける。SNSでの私生活の公開・切り売りなんてものじゃない。

人間が、自分自身の尊厳を守り得るギリギリの精神の境界線を、庵野さんは主戦場として、自分自身と戦い、まさに血を流しながら、何の防御もせずに、世の中に創造し続けてきた。

それが、多くの人々の心を揺さぶり、私個人の精神にも刺激を与え、目覚めさせ、世界の深みの端緒を啓蒙してくれた。

なるべく自分自身を世の中にさらけ出したくない、ATフィールド全開の自分にとっては、そんな行為、とても怖くてできないし、途中でやめたり、他者の意見をブロックしたり、とても生身の正気のままではいられない。

そんな行為を25年もの間やり続けてきてくれた庵野さんには、感謝しかない。

けれど一方で、とてもうらやましい、そういう思いもある。

庵野さんは確かに、この世の中に、意味のある何かを創造し、多くの人に受け入れられた。記録に残る。記憶に残る。

人間、何事かをなし得なくても、日々生きていけるし、そのまま死んでいくこともできる。何事かを成し遂げなくてはいけない、そんなこと誰に強制されるものでもないし、何もしなくても、人生は進む。それなのに、敢えていばらの道を突き進み、自分自身を傷めつけながらも、世の中に、意味深いことを、提供してくれる。

ありがたいとももちろん感じるけれど、なぜ、ここまでするのか。

それは、加持さんがカヲル君(渚司令)に言っていたように「自分自身が幸せになりたい」。その一言に尽きるんだと思う。

この一言が出てくるということは、庵野さん自身は、もちろんそのことに気が付いているということ。

自分自身のため。

それでいいんだよ。

我々人間の唯一にして最大の使命は、

自分自身を幸せにすること。

それに尽きるんだと思う。


人間の魂という計り知れないエネルギーをどう扱い、開放し、癒していくか。エネルギーが大きければ大きいほど、それを扱う人間の負担も大きくなる。けれど、それによって自身が救われる度合いも、大きくなっていくんだと思う。

大人になる。

卒業する。

それが今回の大きなテーマ。

特に印象的だったのが、最後のアスカとシンジのシーン。

アスカは最後の出発前に、シンジのことを、好きだった、と言う。

それを最後のシーンで受けて、シンジも、僕も好きだったよ、という。

そして、ケンスケへの元へと送り出す。

シンジ自身が(そしてアスカも)、自分の心をよく見極め、自認し、肯定し、受け入れ、昇華させてた。

それは、簡単に言えば、失恋する、ということ。

上手に失恋をする。過去の恋愛に区切りをつける。

これは、人間が大人になる上で、とても重要で、必要なことだと思う。

顔や体は子供のままだったけれど、そのとき、ああ、シンジは大人になったんだな、大人になっていこうとしているんだなって思った。

アスカも偉いよ。

最後に素直になって。

あの失恋のおかげで、アスカもきっと、素敵な大人になるんだと思えた。


今のままでいいんじゃないか。成長しなくていいんじゃないか。

そんな思いを肯定しつづけてきた(と勝手に思っていた)エヴァンゲリオンが、成長してしまった。終わってしまった。

だから自分も、大人にならなくては。私の青春は終わったんだ。それを目の当たりに示してくれた。

私の人生にとって、とても意味のある、映画だったと思う。

そして、こんな風にきちんと終わらせてくれた庵野さん、制作陣のみなさん一人ひとりに、心からありがとうと言いたい。

ありがとう。

すべてのエヴァンゲリオン。