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もういつがどんなコロナ禍だったかも忘れて

2023年、新型コロナウィルスのことをさほど気にしなくて良い世の中になった。

約半年前の2023年3月13日からマスクの規制が緩和し、5月8日からコロナウィルスが5類に移行になった。

着実に戻りゆく街の景色、外国人観光客の姿、マスクをしない人たち。マスクの規制が外れてからたったの半年かと思うと、隔世の感がある。

別にコロナウィルスは無くなっていない。
最近も続々と身近な人がコロナに罹っている。弱毒化なんて言うが、罹患するときつい人はきついらしいし、味覚障害など後遺症もあるようだ。

だけどコロナ禍はひと段落したことになっている。状況があまり変わっていなくても、扱いが変わり規制が緩和されると、その見え方は大きく変わる。

現状を表現するちょうどいい言葉がないので、「緩和された」「落ち着いた」とかみんなで言葉探しに奮闘している感を感じる。マスコミもそうだけど、普通に会社の会議とかでも。

こうした言葉が使われるとき、不思議と「コロナウィルスが」と言ったような主語が付かない傾向にあると感じる。

ざっくり2020年3月から2023年3月の丸3年間がコロナ禍とされる期間と見ていいのか。

中学校や高校生の期間全てがコロナ禍だった世代が存在する。今の大学生以下は全員が学生時代にコロナ禍をフルで経験したコロナネイティブである。

コロナ前とコロナ後の世の中は明確に違う。間違いなく将来歴史の教科書にも載るだろう。

我々がいつか世の中の最高齢者層になり、歴史を変えたコロナ禍を語り継ぐ立場になったとき、いったいどう伝えるだろうか。

こんなことを考えた時、コロナがいつがどれくらいの感じだったか、無限にすら思えたコロナ禍はいかに鬱屈とした期間だったかをさっぱり忘れていると思った。

3年間あったコロナ禍でも様々なフェーズがあった。

いつ規制が厳しくて、いつ世間様が厳しくて、逆にいつ世間様は寛容だったのか。

大人数で飲み会しただけで、人でなしのようにバッシングされる雰囲気だったのはいつからいつまでだったっけ、感染した人が直前にバーベキューをしてることが分かったらネット上に顔写真から本名まで晒されてたのはいつだっけ。

あれはその人たちのせいでコロナウィルスの感染拡大が止まらないと思われ批判されていたのだろうか。単純にルール破りが気に入らなかったのだろうか。

当時晒し者にされた人たちは、今どんな風に世間のことを見ているのだろう。

3月のマスクルールの緩和も、最初はどこか外せない様子見の空気感が漂っていた。

私は初日から外したのだが、「ああ、やっぱりマスクを最初から外すようなのはろくな人間じゃないな」と思われないよう、いつもより行動に気を払った気がする。

まん防のせいで丸1ヶ月誰も濃厚接触者がいない期間とかあった。

20時に飲食店が閉まる世の中で、自炊をしない私はどうやって生活をしていたのだろう。まだ2年も経ってないはずなのに、もう思い出せない。

コロナ禍なのに野球場で応援歌を声を出して歌っている論争で盛り上がってから、まだ1年も経っていない。チームがクラスター化しプロ野球が中止になりまくってたのもたった1年前。

あの頃は飲み会はしてたよな。世間的にもそんな批判されない空気だったよな。

いつが何がやってよくて、いつ何がダメな感じだったんだっけ。

単に当時の感染者数だけではない不文律がそこにはあったので、感染者数の推移だけを見ても、いつどんなムードだったかわからない。

迂闊に昔話をすると「えっ、あの"特別な夏"に旅行してたんですか?不届きものですね」になりかねない。

結局何年卒の子がコロナに続々とイベントを潰されたんだっけ。

社会人になりたての人とコミュニケーションを取る時、無意識的に傷付けないように気を付けたいのだけど、彼らの体感がわからない

コロナ最初期、2020年3月〜5月のことは今でもしっかり覚えている。

緊急事態を世の中の大半で共有できたのは、あの3ヶ月くらいだけだったような気もする。

誰しもが堅物だった。21世紀版欲しがりません勝つまではだった。

「zoom飲みは遠方の人とも飲めるからいいね」「終わったあとすぐ寝れるのいいね」じゃあなぜ、今誰も全くやってないのだろう。

2020年7月〜8月頃の第2波のとき、私はコロナはもう存在するものとして、永遠に向き合っていかなきゃいけないものだと感じた。

ノーマスクで街を歩くような大きな逸脱こそしないけど、真面目に自粛する気がなくなった。楽観的に考えたと言うよりは、果てしなさに対する諦念だった。

そしてどう足掻いても当面コロナが消えないことに関しては、事実そうなった。

どれだけ規制が引かれても、それを嘲笑うかのように流行って、ワクチンを打とうがコロナ自体は流行って。

果てしなさや規制の不毛さがなんとなく多くの人に共有されていき、コロナ前風の過ごし方を目指すようになり、当初不真面目とされた行動も次第に受け入れられるようになって。

一方で慎重派もいて、思想分断のようなことも起こり。

そんな中でもマスクだけは、大多数が律儀に着けて。けどカタールW杯で日本人サポーターはほぼみなマスクを着けてなくて。

つい先日もXのトレンドワードに「第9波ですマスクをしましょう」なんてものがあった。

今が数値的に危機的状況であることは事実のようで、このハッシュタグを付けて発信されているポストに相応のリポストやいいねがあり支持者も多いようだ。

去年はマスクを外そう側でこんなハッシュタグがあったり、デモ活動をしている人たちがいた。

もうマスクをつけるつけないが、そのまま主義思想に繋がるような奇妙な状態に突入している。

「現代日本は無宗教だけど、“世間"が神様として機能している」そんな主旨の記事を読んでハッとしたり。

生涯一度しかない冠婚葬祭すら潰された人たち。同世代の結婚式が延期や中止になるのを何件も見た。入学式、卒業式、成人式が各所で中止になってる年もあった。

子どもの出産の瞬間や身内の死の瞬間にもコロナの規制で立ち会えなかった人たち。

絶対に返ってこないものを奪われた人たちは、その補填はしてもらえない。

しょうがない、そういうご時世だった、他の人だって我慢してた、もっと辛く苦しい思いをした人もいた、そんなことで悩めるのは贅沢だ…、そう簡単に片付けられてしまう。

価値観の違いも明確になって、不要不急という言葉の指す意味もわからなくなって、一体何が必要で何が不要なのかという論争も起きた。

私は両親とコロナ禍に対する価値観が明確に違うと、特に2021年以降の2年間は思うシーンが多かった。おそらく同居していたらかなりきつかった。

遠くに住んでいて、結婚式のような重大なライブイベントもなかったので、「そういう考えもあるよな、分かり合えはしないけど」と程よく距離を保てた感覚があるが、この価値観の相違がコロナ禍後も続く根深い遺恨を残してしまう可能性だってあった。事実そうなってしまった家庭もあるのではないか。

多様性の尊重は、悲しいけれど程良い距離感の保たれた関係でのみ成り立つようにも思う。

これまでの当たり前が良くも悪くも消え、大人数で同じ場所で集まってそれっぽく過ごすことだけが仕事ではなくなり。

逆に家でまったりしてようが、やるべきことさえやってれば、それが仕事になって。身近なところではかなり合理主義、個人主義が加速したように思われる。

コロナ禍前はそうしたものを望んでいた部分があるが、人あたりや雰囲気での誤魔化しが効きにくくなることは酷だなとも思った。

ただそれは一部の業種でしか実現してないことも事実で、さまざまな業種の働き方が全く違うことも考えさせられた。

ハラスメント問題が注目される時代とも噛み合い、会社での大人数の飲み会など元々賛否が割れていた文化が身近では消えた。

絶望感、無力感、やり場のない虚しさに満ちた世の中の味。

善悪を判断する「世間」に怯えていたあの味。

リモート勤務で日曜の夜が前ほど憂鬱じゃなくなったあの味。

家でぼーっとしてるだけで感染拡大防止に貢献できてた気がしたあの味。

自らが何かの責任を負ってしまうことに怯えていたあの味。

コロナの症状以上に感染したという事実、周りを濃厚接触者にしてしまうことが怖かったあの味。

いろんなコロナ禍での体感を、どうしてこんなにも覚えていないのか。

日々漠然と抱える不満やイライラって、数年後振り返ると全然覚えてないよね、って感じのやつか。

2020-2022年のあの空気感は、将来ドラマやマンガでどう描かれるのだろうか。2020の方がまだ描きやすく、21あたりが絶妙に難しそうである。

次のパンデミックが生きているうちに起こらない保障もない。まさかこんなことなるわけないだろ、とコロナ前に思っていたことが3年間で起こりまくった。

自分の寿命が着実に近付いてる頃、規制だらけで何もできないかもしれない。世間様から邪魔者扱いされ陰口を叩かれるかもしれない。若者の貴重な人生の時間を奪ってることの怒りの矛先になってしまうかもしれない。

数年後もう一度他のパンデミックで、1からやれと言われたらどう向き合うだろうか。

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