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「まあこんなもんか」時代

2024年の日本

何かと先が見通せず、円安も急激に進み、日本の将来を不安視する声も少なからず聞かれる。

不安や不透明が少子化と結び付けられることもある。先が見通せず不安定な時代に家庭なんか築けるか。

こうしたムーブメントに対し最近感じたことがある。

現代日本はいろんなことの可視化が進んだだけなんじゃないかと。

全く交わらない他人の人生にリアリティが生まれすぎて、本来何も感じなかった事への文句や苦言も見やすくなりすぎたのだろうと。

昨今Xが異常に殺伐としていると感じるが、あれはフォローしてない、本来関心のない投稿を「おすすめ」してくれるせいだろうか。

私刑もあそこまで行くと、いじめの道具に使われてそうな気がしてならない。気に入らない人の人生を1発で終わらせられるのだから。

炎上必至の画像を撮るか、リアルで金銭や暴力の罰を受ける2択を迫られている人がいないだろうか。中高生はその点結構頭が良い。

もうインターネットは一部の人だけがやるものではない。ネット界はクラスの隅で内輪で盛り上がっているようなものだったのに、いつしかクラス全員が参加するコミュニティになった。

その結果ネット界の治安が地方の公立中学校レベルになることは、当然の着地かもしれない。嘲笑の的がDQNからチー牛に移り変わったことはそれを象徴しているように思う。中学生のカーストそのものだから。

Xはインプレゾンビが漂い出すなど本格的にSNSとして末期的な状態と感じるが、それでも私はなぜか見てしまう。

どう考えても非人道的な行動に対するありがたいお説教や、確かにそう言われればそうな気がする社会やスポーツの采配批判とか。

知人や著名人が言っているならともかく、どこの誰だか分からない人が言ってることをなぜあんなに見てしまうのだろう。悔しい。

3,4月には会社に恨みがある人でネットが溢れかえりすぎてるような気がする。

社会人生活を永遠の地獄のように捉える言説で溢れかえってるし、学生時代の私はそれを真に受けていた。

実際社会人になって、社会人生活がネット界が提示してきたほどの地獄には思えず、むしろ高校以前の学生生活の方が自由がなくしんどかったと感じる。

社会という仮想敵がいろんな負の要素をかき集め巨大化しているようにしか見えないのだけど、単に私がとても恵まれているだけか。それとも世の中はイカれた会社で溢れてるのか。

こうしたこともあって転職願望を全く持ったことがない。彼らの提示している世界はどこまでが本当なのだろうか。

ちなみに先日新入社員集団の飲み会グループとすれ違った時、彼らが一番ステレオタイプ的な「ザ・会社の飲み会」をやってるなと思った。

大学も新入生が一番ステレオタイプにまとまっていたりするし、そうあらねばならないと思うのだろうか。

不安定な時代の話に戻って、私の生まれた1990年代を考えてみる。懐メロやドラマ、カルチャーの話を聞くと90年代は活気ある時代のように思っていた。

逆に私が中高生だった2010年前後、90年代以前と比較し当時が冬の時代かのように扱われるシーンも多く目にした。

ただ社会情勢について掘り下げると、90年代は凄まじく不安定で将来が保障されてない時代だったのではないか?と思わされる。

バブル崩壊、長期間の不況、大手金融機関が続々倒産、終身雇用や年功序列が崩れ始め、リストラ、就職氷河期…
90年代中盤にはオウムの一連の事件もあった。

今が完璧な時代だとも思わないが、将来への不安は90年代の方が大きく、見通せないの"先"の距離が今よりもかなり近かったのではないか。

既存の常識、自らの将来を保証する要素が一つ一つ崩壊していくのをリアルタイムで経験していたのだから。

現代自己成長を促す広告は盛んに流れるけど、それは自主退職を促されないためではなく、むしろ転職市場での価値向上を目的にしていたりする。

90年代に若手会社員として働いていた人の話を聞くこともあるが、「若手に人権なし」が共通認識であった時代なことを感じる。

また90年代に学生だった人々は今より荒れていて、不良がおっかなくて、体罰も全然あり、運動中水が飲めない時代だったと言う。

逆になんでそんなことになっていたのだろう。当時の世論は、今と比べてどれくらい日本の将来を悲観していたのだろう。

インターネット黎明期で、今ほど人生のネタバレを喰らわない代わり、理不尽な仕打ちを世間に告発できなかった時代。そもそもの違和感に気付きにくかった時代。

最近日本社会における戦争や軍隊、戦後復興時代の名残について考える。

10数年前までは戦争や軍隊の名残があったけど、戦前世代が現役から退いていきつつあることで、名残が薄まりつつあるのかもしれない、と思うのだ。

もちろんそれだけとは思わないし、全人類を衆人監視下においたインターネットの影響は大きいのだろうけど、人権意識の高まり、個人主義の広まり、多様な生き方の受容などここに当てはめて考えるといろいろしっくりきた。

戦を思い浮かべると、下っ端の勝手な行動で戦況悪化に繋がる可能性があるわけで、多様性はリスクだ。

水を飲ませない謎教育も兵士として生き抜く訓練の名残な可能性を考えると納得が行った。
熱中症予防のため、両軍一時休憩しての水分補給休憩など、戦の最中に存在しないだろう。

また富国強兵や戦後復興に向けては人手が多く必要だったことだろう。現代も人手不足を嘆いてこそいるが、技術の進歩により重労働は仕事でも家庭でも着実に減っている。

結果的に100年前の基準で見れば、現代人の仕事は「あってもなくても困りはしないもの」が多くを占めてしまってるのだろう。

学校の社会でぼーっと習っていた第一次産業、第二次産業、第三次産業の割合の変遷がこう繋がっていくのだとようやく分かってきた。

現代の感覚では超悪者になっている性別役割分業も、1970年代ごろまでの日本の仕事は一般的な女性が参加するのは困難なレベルの重労働が多かったことの名残と知った。

そうしたことに限らず世界大戦や、それ以前の日本国内外で数千年にわたり繰り広げられたことに目を向けると、第二次世界大戦以前は人間がもっと野生動物的だったのだろうと感じる。

だから現代の感覚で歴史を学ぶと、特に19世紀以前のことはどこか空想上の話に思えるのだ。逆に現代日本で野性味溢れる人は煙たがられるだろうし、治安の乱れに繋がる可能性がある。

娯楽が満ち溢れ、暇がなくなった。

かつてメディアは情報を一方的に押し付けていたのだろうし、受け手もそれを数少ない娯楽として受け止めていたのだろう。その良し悪しはあると思う。

無限の可能性は持ちやすかっただろうし、逆に理不尽な仕打ちを認識しないまま受けやすかっただろう。メディアと世間にははっきり壁があり、ある種互いに他人事だったのだろう。

今は演者と視聴者の距離が近すぎて、逆にこってりしたバラエティ番組を見ると「お仕事がんばってるなあ」といったような目で見るようになってしまった。

コンプライアンスもあるんだろうけど、昨今のテレビが丸いと言われるのは視聴者に「そんなわけないじゃん」の目線が備わってしまったことによると思う。ある種リテラシーの向上と言うのだろうか。

私の好きなYouTuberを思い浮かべたとき、彼らの動画がテレビ番組より面白いから見ているというよりは、「そんなわけないじゃん」要素の薄さによる納得感や身近さ、そして手軽さがあるから見ている気がしてきた。

もう何年、何もやることがなくしんどいという感情を持ってないだろうか。無料コンテンツだけでどれだけあるんだ。サブスクまで足すと常にコンテンツに追われている感覚だ。

今週1週間でYouTubeに上がった動画、全部見たら何年掛かるのだろうか。

自分で摂取するコンテンツの選択権がある人たちは良いが、子供の趣味がかつて以上に親の影響を受けるようになったりするのか。

従来なら声なき声だったであろう社会的に苦しい立場の人の声も見れる。「無能」の烙印を押される人の苦労が見れる。逆に果てしない成功者もリアリティを持って可視化される。

今は多様な人の発信が見れすぎる結果、いろんなことに対し「まあこんなもんか」と思うし、どうせ調べられるならと安定を取ってしまう。

仕事が出来ない人と接してもネットの声のおかげで、「この人は"仕事"というものが苦手なんだな。」と思うようになった。あと自分が苦手な仕事と勝手に重ねてあげたりしてる。

旅行ではあらかじめ行き先の有力スポットを調べ、絶賛されてる観光スポットに行って「噂通りだなあ、ネットで見た写真の通りだなあ」となる。偶発的な出会いは本当に減った。

敢えてネットを見なければ出来るのだろうが、そもそもそんなことが出来なかった中でそうするのとはちょっと話が違うと思う。

いろんなことに「まあこんなもんか」と思いやすい。

けどXはあんな感じだし、キュレーションサイトも必ずしも当てになるんだかという感じなので、じきにネットは情報過多で機能しなくなる可能性がある。そのうち日本の有名観光地を調べてもアラビア語のサイトに誘導されるかもしれない。とんでもない数のポップアップ広告が出るかもしれない。

そうした時に、るるぶなどが再評価されたり、より純粋な偶然が起こりやすくなるのかもしれない。

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