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色のメッセージを受け取る #5漱石『虞美人草』にみる紫の危うさと美しさ

「紫」には美というキーワードがある。紫の美は、ミステリアスな美しさである。これは紫が相反する2色が合わさった色であることに由来する。紫は、「情熱的」で「生命力」あふれる赤と、「思考」「冷静さ」を意味する青という極めて対照的な二色を混ぜた色である。この赤と青がせめぎ合いながら、きわどいバランスを保っているのが紫の魅力であり、危うさでもある。そして、そこから神秘的な美を象徴する色となる。

夏目漱石の『虞美人草』では、この紫の美が余すところなく語られている。小説の主人公、藤尾は「紫の女性」である。漱石が描写する色彩の鮮やかさに、改めて文豪の筆の力に感嘆する。

紫の着物姿の藤尾に「黒髪」と「黒き眸(ひとみ)」。紫に黒の魔力が加わり、彼女は男を「悉(ことごと)く虜(とりこ)」にする。そして金色に輝く時計が藤尾の美しさを際立たせる。さらにこの金時計の鎖の先には赤いガーネットの飾りが施されている。紫の着物に、黒、金、赤。藤尾の神秘的な美しさが際立つ配色である。漱石は、紫と黒で藤尾の近寄りがたい美しさ、金色で気高さを、赤で熱い情熱を表現しているのだろう。

この金時計は、藤尾が想いを寄せる男性、小野さんを象徴する小道具でもある。小野さんは大学を優等で卒業し、天皇から銀時計を下賜された秀才である。そして今度は博士論文を書かねばならぬと決心している。「学者のうちで色の尤(もっと)も見事なる」博士となって、金時計を賜ることを夢想している。小野さんも藤尾に強く惹かれているが、藤尾がこの金時計をもてあそぶように、小野さんは藤尾の美しさと傲慢さに翻弄される。

小野さんをめぐって、藤尾の恋敵となる小夜子が登場する。小夜子は、藤尾とは対照的に「何時(いつ)咲いて、何時消えるかわからない」「憐れな花」のように控えめな女性である。この小夜子を漱石は、黄色と表現する。漱石は、紫の補色が黄色であることを知っていたのであろう。ここで黄色のキーワード「幸福」が、その後のストーリー展開を暗示する。

小野さんは、この二人の対照的な女性の間で、結婚を思い悩む。小夜子は、小野さんが学生時代に世話になった恩師の娘である。小野さんは恩師に対して、小夜子との結婚を約束している。ところが、一向に結婚話は進まない。そんな小野さんに業を煮やして、恩師は京都から小夜子を伴って東京に越してきたのである。小野さんは、藤尾にひかれながらも、恩師との約束を反故にすることができずに、藤尾と小夜子の間で揺れ動く。こんな小野さんは、色に例えるならば、緑の男だろうか。二人の女性そして恩師との距離を測りかねて、決断できない優柔不断な男である。緑には、調和・スペース・心の真実・道というキーワードがある。道に迷って、心の真実に従って生きることを見失った小野さんの人生は、緑がテーマとなっているようだ。

藤尾は、勝ち気で傲慢な女性として描かれている。紫の中の赤が勝っている。藤尾はある時、小野さんが小夜子と茶屋で同席している姿を偶然見かけ、怒りと嫉妬の炎を燃やす。そして藤尾の赤の部分が、暴走し始める。

ここでもう一つの補色関係が隠されていることに気づく。小野さんの緑と藤尾の赤である。補色関係にある2色には、お互いがお互いの強みを引き立て合う相乗効果が期待できる。何事もなければ、藤尾と小野さんはお互いの魅力を高め合うお似合いのカップルとなったのかもしれない。ところが小説の中では、藤尾は赤を強烈に発揮して攻撃的になる。これは、小野さんから緑の刺激を受けた結果とも考えられるし、同時に緑の小野さんを獲得したいという思いがより強い赤となって表出したとも考えられる。

小説の最後で、優柔不断な小野さんは大きな決断を下す。藤尾の赤は、どこに帰着するのだろうか。『虞美人草』は小説を色で読み解く楽しみを味わうのに最適な小説である。美にはさまざまな美しさがある。危うさもまた美であることを、「紫の女」藤尾は教えてくれる。

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