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伝えることの難しさ - 思いをそのまま伝えることは罪か? -

ある日、友人と話をしていた時のこと。
「あなた(=筆者)のレビューは、私でもイラッとした」
「(そのレビューが原因でレビューされた側の人は)あなたのことを嫌っている」

非常に辛辣な意見だ。この友人は、私に対して率直に、そして自分の思いをしっかり伝えてくれる素晴らしい友人で、人間として素晴らしい考えを持っていると思う。

とはいえ、その友人も人間であるため、色々悩むことは多いよう。本当に様々な話をいつも持ってきてくれるが、どれも人間らしさがあって、一緒に話を聞いていて飽きることはない。重ねてになるが、非常に素晴らしい人間なのだ。

故に多少なりとも私に考えさせる意見であることも否定できなかった。そこで私の思考過程と、私なりの意見を伝えたい。

結論、嫌われることはもとより承知の上だ。

(表題の写真:Peter Paul Rubens "Atalanta and Meleager", Image © The Metropolitan Museum of Art )




伝えることとは

そもそも、私は伝えることで行動が変わってほしい、という考えを持っている。それは他者依存ではなく、自らの意志によって変わってほしいという考えだ。

そのために、ある種の「炎上」は必死だとも考えている。むしろ、その人の感情に火をつけなければ、本当の意思(≒意志)が見えてこないと思っている。
考えを引き出し、心の奥底で思っている強い意思を引き出すことで、人となりを、その人の強さを、良さを引き出したいともいえる。

そのために、口調は強くとも、その人に本来の「考える」という行為を通して、自分の本来の意志(= will )を思い出して欲しい。
それを口にすることが「伝える」ということであり、達成されなければ、決して他者はその意図を汲むことはできなければ、そのことを知ることは恐らく死を以てしても測りかねる。

その強さが現れる程度には「伝えている」文章であるのか?ということは、レビューする上で検討しているわけで、表層のちょっと考えた程度では、突っ込まれるのは当たり前というのが私の意見。そもそも、レビューを前提にしてそこで良くしてもらおうという考え自体が良くないのだ。気持ちは大いにわかるのだが。


「オブラートに包む」は果たして幸せか?

そんな「ちょっと考えた」意見が送られてきたとき、2種類の回答方法がある。
1.優しく、あえて修正点を一部のみ伝える
2.厳しく、修正点を全て指摘する

ここで考えなければならないのは、1.優しく~である。これが果たして、本人のためになるのであろうか?
私は、そうではないと考えているが故に2.厳しく~を選択する。

ここで、優しく=オブラートに包むとして考えたときに、その意見を優しく伝えることが、本人の行動を変容させるものであるのかと考えると、決してそうではない。

それが、本当にその人にとって幸せなのか?といい換えれば決して幸せではない。
厳しくも、現実と向き合うことが、本当の意味合いでの幸せに繋がると考えているためだ。これは、先の記事にも繋がるため、ぜひこちらも参照していただきたい。

オブラートに包むことが、幸せには繋がらない、というのが私の個人的結論である。

理想と現実の間

しかしながら、結果的に事実を伝えて、行動が変容しなければ私の行動は一切合切不要なものであって、それを指摘している時点で、同じ穴の狢である。

理想は「厳しい意見を伝えて、行動変容を起こし、結果として幸せな将来を手に入れることが出来る」であって、現実は「厳しい意見を伝えたものの、行動変容を起こすことができず、結果として、幸せとは程遠く、むしろ恨み辛みといった、怨嗟の感情を増長させる」といったことも考慮すべきであろう。

恐らく、理想の結果を手にするまでは、先に記した「厳しい~」の部分は受容されず、むしろ失敗したということが判明するまでは「怨嗟の~」の部分が強調される。

それを受容できるかどうかは、意見を表明した側にあるし、それが本当に正しいと信じているかに依拠していると考える。
しかし、これは非常に難しい行為であって、相応の自信と、義理人情が必要。

乗り越えるためには

結果的に、これら意見の対立を乗り越えるためには何が必要か。私は、双方の意識変革であると考える。

人間というのはそもそも一人では生きていけない。旧約聖書でアダムが一人で生きていけないがために、つがいのエバが肋骨から誕生したのと同様。

しかしそこで「知識の実」をサタン(=蛇)によって得たのではなく、自己の思想と良心に基づき、判断すべきであるということである。
書くのは非常に楽であるが、キリスト教的観念を理解しているかどうかによって、この表現が受け入れられるかどうかが異なるのと同様に、簡単に解決できるような問題ではないのである。

それは相手が生身の人間であって「生きている」からである。

結論

では私達が生きる上で、どの様に「伝え」れば良いのであろうか。
それは「思想良心に基づき、公共の福祉に反しないよう」に情報発信していくことにあると考える。

自由という行為には、責任も伴う。これが真の意味で理解できていない層は一定程度いるとも考えている。これは決して悪いことではない、それを説得していくことが、正しい行為の一部でもあるのだ。

伝えるとは、かくも難しい行為である。しかし相手を慮って、いつか気づいてくれれば、という理想の上で成り立つのが、ある意味で正しい行為なのかもしれない。簡単なようで難しいことである。

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