見出し画像

いま贈与論を考える:チアパスとオアハカにおける先住民の生活実践と贈与の可能性


(全文版)

導入:過去から現在、旅または遠くからの思索


 この2年間のコロナ禍で、旅をすることはとても難しくなりました。我々世代が経験したことのない移動にかかる制限。それは社会の分断をさらに加速させるかのようです。その証左として、ここメキシコでも社会経済格差が以前よりさらに可視化されるようになりました。巣篭もりできる人と巣篭もりすらできない人。国家統計に含まれないインフォーマルセクターと呼ばれる層が就労人口の半分を超えるこの国では、こんな状況下でも毎日外に出ざるを得ない人たちがたくさんいます。コロナ危機下で、日本のように自助を訴える国家が無力さを露見し、各国で国民生活の明暗が分かれる事態となっています。
 僕個人の実感としては、多くの人たちと疎遠になってしまった一方で、今まで関係が深かった人たちとより良い信頼関係を構築し、コミュニティの強化というものも感じられます。こういったつながりは「紐帯」とも呼ばれ、そこにはいつも「贈与」という概念・アクションが力動しています。この贈与とはなんなのか、そして贈与がもつ哲学・社会・経済的な可能性を僕のフィールドワークや大学での経験から掘り下げて行きたいというのが本文の趣旨です。
 コロナ禍という背景もあいまって、ここ数年日本でも「贈与」や「利他」というキーワードを含む多くの書籍が刊行されてきました(伊藤編 2021; 岩野 2019; 近内 2020; 中島 2021; 松村 2021; 森 2021; 山田 2020; 湯浅 2020)。その内容は贈与という問題にかんして哲学がどのように論じてきたかを系譜学的に俯瞰するもの、人類学やアナーキズムに絡めて贈与論を再考するもの、利他という概念を深めるもの、と様々です。しかしその根底には、資本主義を超えるものへの期待 (注1)があって、贈与や互酬の持つ可能性を再検討するという流れがあると感じます。
 そもそも贈与や相互扶助をめぐる議論は、社会の近代化にともなって哲学や人類学といった分野で深められてきました。東日本大震災とパンデミックを経た日本では一つの思想的コンセプトとして流行を迎えているような印象を受けます。その中でもこの5年ぐらいの流れを先行していたと思われるのは哲学者の柄谷行人氏の書いた『世界史の構造』(2010)です(注2) 。柄谷氏はここで来たる社会の「高次元での贈与の回復」の可能性を呈示していました。 
 この贈与の回復と本展の表題である「旅」というテーマとをからめて考えると、東浩紀氏の『観光客の哲学』(2017)がひとつ論点の展開として面白いのではないかと思います。本書では柄谷氏の「贈与の回帰」も参照しながら、「観光客」というコンセプトのもつ偶発的な「誤配」の可能性について論じています。ですが、僕はこの「観光客」というコンセプトの射程に関してどうしても懐疑的な目を向けてしまいます。
 かれこれ10年近く中南米にいることもあり、当該地域各国を回ってきましたが、(自戒を含め)観光客とは観光資源を貪るだけで、概して場に対して無責任な存在であると感じてきたからです。それは、観光客という表層的な存在に共感(エンパシー)という概念が不足しているからなのではないでしょうか。
 例えば、中米でとある日本人宿に行った時のことです。共用スペースで話をしていると時には輪ができて、個々の経験について話すような機会がありました。すると「どこどこにどういう風に行くと安上がりだった」という話が何度も出ました。皆貧乏旅なのでもちろん出費を避けたいという気持ちはわかりますが、「旅」の本質からは逸れてしまっているような印象を受けます。僕は個々の経験がもっと感動や落胆に即したものであって欲しいし、日本ではない空間でいかに日本人たちが現地の人たちと交流しているかということを知りたかったのですが、あまり収穫はないまま宿を出て行きました。
 もちろん、全ての「観光客」が共感を欠いた人間であるということではないのです。しかし、出会いを前提としている「旅」と、史蹟などをめぐる「観光」とでは本質的な違いがあるように感じるのです。今までの日常から「ずれ」て他者に「共感」する、これが旅の意義なのではないかと僕はまず提起したいと思います。そういう意味で、「観光」と「旅」は似て非なるものだと思います。「旅は道連れ」というように、例え一瞬でも誰か・どこかにコミットして旅は成立するのです。贈与も後述するように、背景に物語・倫理がなくては、意識的にも無意識的にも力動しません。ゆえにデリダの「誤配」という概念は「旅」にも適用できるので興味深いですが、「観光客」というコンセプトには目に見えて限界があるように思えます。
 上記の考察を踏まえた上で、ここ2年の移動の困難は僕らが内面への「旅」を進める機会でもあります。自分の「ずれ」の軌跡を再確認することは、ひとつの旅のかたちであって、現在地点を見つめなおす最良の方法です。ここにおいて、アートの果たす役割はとても大きいと思います。というのも、「ずれる」という経験は、まず旅においては自分の「非日常」を「日常」として取り入れて行く作業なのです。アートは、美術館で見ようが街中でみかけようが、否応なく作品に出会った前の世界と出会った後の世界に境界線を引きます。人類学、社会学や哲学も同じように、自分とは違った環境で暮らせば、自分もまた変わるし、素晴らしい書籍に出会えばその後の自己の世界は少し更新されます。
 そうやって僕らは少しずつずれていってるのだと思います。そしてその「ずれ」が人生に喜びを与えてくれている。今回は少し僕の「ずれ」の物語を思索の旅として、その道程をみなさんにも共有できれば嬉しく思います。少し長文になりますがお付き合いください。
 なお、本文は千葉県に所在する月出工舎主催の展覧会『旅のかたち』において参考資料として利用するために作成されたものです。より多くの参加者の方が読み手となってもらえるよう、学術論文とエッセイの中間的な体裁で記述していきます。文末に参考文献も付記するので、興味のあるテーマがあれば皆さんにも読んでいただけるよう、できる限り日本語文献も紹介したいと思います。しかし中南米研究の書籍は原著がほとんどになってしまうことは翻訳不足ゆえのこととお許しいただければ幸いです。

メキシコへの道

2018年末、京都で自分の研究について短いプレゼンをした時にとてもいい質問をもらったことが記憶に残っています。「コンビニなどに代表される高い利便性を日々体現する現代日本社会が一体先住民から何を学べるのか」、という質問でした。この質問への返答を念頭に今回の文章を組み立てて行きたいと思います。
 そのためには自らの学びも含めて、少し個人的な経験に話を遡る必要があるでしょう。なぜ、メキシコなのか。多くの方がそう思われるかもしれません。僕にとっては至るべくして至った場所なのですが、例の「ずれる」という行為を繰り返しているうちに知らず知らずのうちに遠い地点まできてしまったというのが今の実感です。
 2013年当時、大阪での学士時に1年間留学していたメキシコという場所を忘れられないまま日々を過ごしていたことが、現在にまで続くメキシコ住まいの大きな判断材料の一つになったとは思います。しかし、僕が当時勤めていた会社を辞めて再びメキシコに渡ったのは、人類学者のデヴィッド・グレーバー(2020)が指摘するところの典型的な「ブルシット・ジョブ」(注3) に自分が従事していたことを実感していたからであり(注4) 、ただ漫然と年月が経って行くことに耐えきれない思いを抱くようになっていたからでした。そこで、自分がどう生きていきたいか、何に魅力を感じるかということを再び突き詰めて考え直した時に、見えて来た選択は「研究の道」だったのです。
 心を決めればあとは猛進あるのみ。日本とメキシコの交流協定を通じて奨学金を得て再度メキシコに渡ります。しかし、勢いメキシコ国立自治大学に来たものの、当時はまだ具体的な研究計画もなく、まずはモグリでラテンアメリカ研究科の授業に出席しながら何を研究したいのかを模索して行くことになります。同大学晢文学部に所属するラテンアメリカ研究科は、レオポルド・セアという研究者らが中心となって創設した学際的地域研究科であり、哲学、文学、経済学、社会学、人類学者などが、ラテンアメリカ及びカリブ諸地域をフィールドとして多岐にわたるテーマを研究しています。
 僕はそこで、経済学的なアプローチに最も興味を持ち、まずは従属論 (注5)などの中南米経済の基礎的書籍に触れます。また2000年代急速に議論が盛んになった南の認識論(注6) 、ポスト発展主義(注7) 、社会的連帯経済(注8) 、ブエン・ビビール(善き生)(注9) などといった近年の研究動向に親しむようになりました。さらに、ヨーロッパからの思想潮流としてセルジュ・ラトーシュの脱成長論(注10) にも触れ、「資本主義の代案としてのシステムとはどういうものなのだろうか」という問いを自分の研究の中心に据えていくことに決めたのでした。
 また、もう一つの視座として、脱植民地という考え方も中心命題となっていきます。中南米に住んだことのある日本人の方であれば、誰でも経験されていると思うのですが、現地では日本の話をすると必ずといっていいほど戦後の経済成長と発展の話が出ます。僕の会社生活という原体験は、経済成長の先に待つ「意味」の「貧しさ」が存在するということを経験知として教えてくれたという点でとても価値のあるものであったと思います。既に、「経済成長=人生の充足」という定式は自分の中で崩れ去っており、中南米各国がいわゆる先進国と呼ばれる地域を目指さなくてはならない、この強迫観念に大きな疑問を覚えるようになります。
 根本的な問いが決まれば、あとは研究対象を何にするか、です。マルクス研究者の斎藤幸平氏が、この脱成長論をマルクスの晩年の考察と絡めて、コモンの再生というシナリオを描く『人新世の資本論』(2020)というとてもコンパクトにまとまった本を執筆されています。その中で、最終的にグローバル・サウス (注11)における実践への期待が描かれていますが、普段何気なく使っている「経済成長」や「発展」という言葉に潜む毒性に気づかされた僕もまた、自給自足や贈与・互酬性など、資本市場における等価交換とは違う原理で経済が機能する社会に着目することにしました。中南米という場所でそんな実践をしている人たちを探る中で、先住民コミュニティの広い意味での社会経済的活動に強く惹かれていくようになりました。ラテンアメリカ近現代史の中で、経済発展の障壁だとも言われて来た彼らの生活のあり方が、未曾有の環境危機の示す僕らの生活スタイルの持続不可能性に対し、一条の光のごとく現出してきたためです。
 しかし、一つ前置きとして明らかにしておく点があると思います。一口に先住民と言っても実に多様な民族、そしてその生活の形態が存在しており、例えばアマゾンの奥地で都市社会とは接触せずにひっそりと暮らしている人々を思い浮かべてしまうと、今回の研究の提示している実践の射程を見誤ります。我々が前提とすべきは、コロンブスのアメリカ大陸上陸以降のすべての歴史を経て現在にも息づく先住民としてのアイデンティティ(注12)を持つ人々、しかしながら彼らは我々と同じく今日スマートフォンを駆使し、都市生活を経験したこともある人々のことを指しているのだということを念頭に置いてほしい、ということです。つまり、資本市場から完全に離れた先住民族というものを前提として今回の話を進めて行くのではありません。
 さて、最初の研究対象として僕が選んだのは、1994年に武装蜂起し、史上初めて効果的にインターネットを駆使した反システム運動として、日本でも知られることになった革新的な先住民組織であるサパティスタ民族解放軍(以下EZLN )でした(注13)。武装蜂起後、政府との和平交渉のテーブルにつく中で1996年に採択されたサン・アンドレス合意は、政府によって反故にされ、以来地道な自治組織の編成に注力してきました。その結果、現在地域ごとに自治コミュニティを統制する政治形態があり、多くの社会運動にとって参照すべき一つの模範例となっています。しかし、その自治運動と表題の贈与論が一体どうつながっているのかと思われる方も多いと思います。まずは贈与論の簡単な概説をすることでその関係を理解していきたいと思います。

オルタナ全ての地平に現出する贈与論

 先ほど色々な研究動向に親しむようになったと記述して来ましたが、最終的に2014年のある授業で触れたドミニク・テンプル(2003)というアマゾン先住民研究者の著作がきっかけで贈与論に着目するようになります。そもそもオルタナティブ経済といえば、代替経済、これすなわちなんの代案なのかというと現行システムである資本主義にかわるもの、ということになります。先述の様々な理論が資本主義やその先鋭的な一形態である新自由主義を批判し、別の社会経済のあり方提示していることを理解していく中で、僕はある共通性を見出すようになりました。それはすべてのオルタナの根幹に実は贈与あるいは互酬(注14) の概念が参照されている、という事実です。例えば連帯経済の連帯の核はメンバー同士の互酬的交換にあり(プロジェクト参画に伴う時間的・経済的自己犠牲など)、ブエン・ビビールであれば人間-自然間の互酬性の構築など、人間のコミュニケーションの深層には明らかに等価交換に還元され得ない現象が日常的に起こっています。それを贈与や互酬の表現であると理解すれば、金銭を介した交換以外にも、編み目状の交歓とも呼ぶべきつながりが国家や資本という枠組みを超えてあらゆる場所に存在しているということになります。
 そういった意味で、マルセル・モースの書いた『贈与論』(2014)は古典としてとても重要な役割を持っています。モースは基本理論として、贈与-受容-返礼という3つのモーメントに着目し、人類学及び歴史学的見地からの互酬的交換形態の基礎理論を打ち立てます。その後、返礼の謎に対するモースの解答への批判などをはじめ、今に至るまでこの書籍を中心として議論が深められて来ました。今回このモースの理論の中で僕が最も注目したいのは、この返礼の謎(ハウ)と全体的社会的事象という定義です。
 モースにとっての贈与の最大の疑問は、なぜ返礼が行われるのかということでした (注15)。そこでこの疑問に対してマオリ族の「贈与の霊」であるハウを引き合いに出して返礼における霊的強制力の存在を示しました。これに対し、1950年に出版されたモースの『社会学と人類学』の中で、人類学者のレヴィ=ストロース(1979)が導入部分において、「浮動するシニフィアン(ゼロ記号)」という言葉を使い、ハウという言葉を使ったモースの理論を批判します。レヴィ=ストロースからすれば、調査対象地域の原住民の宇宙観に即したハウのようなものはどこの民族のどこの言葉にでもなりうるものであって、もっと科学的なアプローチからこの贈与交換というものを見るべきであるということです。
 しかし、今村仁司氏(2016)の言うように、この贈与関係を力動させる先住民・原住民の主観の存在こそが重要なもので、そこにある物語や倫理を追わずに、贈与や互酬をただの等価交換関係に収斂させてしまうのは、勿体無い気がします。むしろここに立ち上がる贈与の倫理や物語(つまり浮動するシニフィアン)にこそ、なぜ等価交換の原理に基づかない、むしろ「交歓」ともいうべき現象が起こるのか、その鍵があるように思います。
 また、僕がテンプル(1997)の分析で最も興味深いと思ったのは、贈与というものが生産を促すという点でした。自給自足を超えて、余剰を作り出すその目的は、「交換」か「贈与」に還元されます。そうです、人にものをあげるためには、僕らも何かを生産しなくてはならないのです。生産を贈与が促す、これはまさに目から鱗が落ちるような話でした。僕の中で何か認識的転回が起こり、贈与という世界が一気に開けて見えるような感覚を得たのもその時です。
 ただし、注意しておきたいのは、必ずしも常に贈与が資本の対抗軸になるわけではなく、資本に包摂されてその機能を促進させもするし、また贈与が生む力(あるいは権力)の不均衡は時にフェアではない事態を引き起こします。しかし、それでも贈与はオルタナを語る時に避けては通れない命題であるのです。それは贈与が人間の根幹である社会性に関わるからです。
 さらにモースの注目すべき定義に「全体的社会的事実」あるいは「全体的給付」というものがあります。これはつまり、贈与という現象は経済だけに還元することはできず、同時に社会的であり、法的であり、儀礼的であり、美的であり、といった切断できない複合性をもつものだということなのです。このあいまいさは、贈与へのアプローチの難しさに直結しており、参与観察を通じた追体験が一番実は贈与関係理解の近道なのではないかと僕は思っています。
 さて、前置きはこれくらいにして、これまで話してきたことが一体どういった形でメキシコ先住民から提示されているのか。今回はチアパスとオアハカのケースをご紹介します。


導入部脚注
1. グレーバー(2006)も指摘するように贈与と資本は共生関係にある。そのため、資本を超えるという話は慎重に議論が必要。しかし、ソルニット(2010)の指摘するようにシステムの危機の下で立ち上がる共同体は、いつも贈与・互酬的関係をその根本に据えているのもまた事実である。つまり、等価交換と剰余蓄積が最大の経済原理だと思われている世の水面下で、贈与はいつも力動しており、危機においては(危機という)共通の物語を通じてそれが顕在化されるのである。では、問題は、「平時にどうやって贈与関係をより顕著に構築していけるか」なのだろう。これについては本文全体を通じて議論を深めたい。
2. もちろん今村仁司(2016)や中沢新一(2004)各氏の仕事も忘れてはならない。
3. ブルシット・ジョブ(Bullshit Job)とは、グレーバーが提唱した、世の役に立っておらず、従事する本人自身が不要だと思っている仕事のことである。正式な定義は以下の通り。「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。」(グレーバー 2020: 27-28)。
4. 当方は某メーカーの海外営業部という名の海外販売管理部門にいたが、実質いようがいまいが会社のオペレーションには全く関係のないポジションだった。
5. 従属論とは、リカードの「比較生産優位説」を批判し、世界的な資本主義分業体制にあって、中枢と周縁の2軸に世界経済は分かれており、中枢の富及び生産手段の蓄積とともに、周縁ではモノカルチャーと貧困が継続して進んでいくこと看破した国連のCEPAL(ラテンアメリカ・カリブ経済委員会)メンバーが中心になって提唱した理論。CEPALは、いわゆる南北問題における南が北に従属した形で、社会経済発展が同時並行に進んで行くという楽観的な発展理論を批判し、ラテンアメリカ諸国に対しては輸入代替工業化を推奨し、20世紀中盤大きな影響力を持っていた。現在の組織は残念ながら国連における中南米のただのデータバンク的存在であり、ラディカルな提言は行なっていない。
6. 南の認識論(Epistemologías del Sur)とはポルト・アレグレの社会フォーラムにおいて集積された見地を中心に、グローバル・サウスの思想と実践から世界を見直す認識論的転回を指す。提唱者はポルトガル人のボアベントゥーラ・ジ・ソウザ・サントス(2009)である。
7. ポスト発展主義(Post-desarrollo)とは、メキシコのグスタボ・エステバ(2009)やコロンビアのアルトゥーロ・エスコバール(2007)などを中心に展開されて来た、発展主義の植民地性批判である。
8. 社会的連帯経済とは、非資本主義的組織や組合が生成する社会的経済と、反新自由主義を掲げ公正な分配を目指す社会運動が形成する連帯経済という2つの概念を組み合わせたものである(廣田 2016)。中南米ではアルゼンチンやブラジルのケースが法的整備の関係もあり有名だが、メキシコにも同様の経験はある(Marañón, et al., 2013)。
9. ブエン・ビビール(Buen Vivir)とは「善き生」や「良い生き方」と日本語でも訳されている、ケチュア(ペルー・ボリビア)及びキチュア(エクアドル)語話者の使うSumak Kawsay(スマ・カウサイ)のスペイン語訳である。ちなみに、ボリビアに多く住むアイマラ人にもSuma Qamaña(スマ・カマーニャ)という類似した言葉があり、スペイン語の訳語はVivir Bien(ビビール・ビエン)となっている。エクアドル(2008)とボリビア(2009)の憲法に先住民由来の人間と自然の調和を目指すものとして採択されたことで、一躍有名になり、ラテンアメリカ研究界でも、学者たちがこぞって研究を進めてきた(Acosta, 2010; Gudynas, 2012; Huanacuni, 2010; Unceta, 2013, etc.)。しかし、近年南米の進歩主義政権(gobierno progresista)の評価が固まって来る中で、現在は政府によってパンフレット化されたお飾りの言説として批判もされている(Ávila, 2020)。
10. 脱成長論とはフランスの社会学者セルジュ・ラトゥーシュ(2010; 2013; 2020)の提唱する理論で、経済成長を至上命題としない新たな社会・経済の構築を目指すものである。
11. 先ほどから何度か使用している言葉だが、広くグローバル資本主義の被害を受ける「南」としての側面と、それに抗する人たちをも含む語としてここでは使っている。ポスト発展主義などの視座を取り入れると、中南米各国を「途上国」という風に短絡的に表現してしまうことは、経済の直線的かつ目的論的な「発展」を信じて、先進国と呼ばれる場所が未来に先行するという、「発展」というコンセプトへの信仰告白になってしまう。そのため、本文ではグローバル・サウスという広がりのある言葉を採用したい。また、先述の日本の生活の利便性はグローバル・サウスの継続的な搾取によって維持されている。したがって日本で消費活動を営むことで、グローバル資本主義社会の周縁部にいる人たちに何らかの危害を加えている可能性は否定できない。しかし僕たちにはその感覚はない。日本だけではなく、いわゆるグローバル資本先進国では、グローバル・サウスへの負担に対する責任感が欠如している。
12. フィールドワークに出かけると「先住民」という言葉を嫌がる人にもよく出会う。
13. スペイン語でEjército Zapatista de Liberación Nacionalの略語。
14. ここでは贈与と互酬を同列で語っているが、その違いは何かと問われると、この回答だけで学術記事が一本書けるぐらい実は長い間議論の対象となってきたテーマである。マリノフスキ(2010)のいう「純粋贈与」のような、全く見返りを求めない贈与、つまりは無償の贈与というものを哲学が主題として研究してきたのに対し(非円環的)、人類学は返礼をともなう互酬交換ともいうべき形態(円環的)に研究の力学をおいてきた。両者に共通するのは、デリダ(1991)の指摘する「差延」の存在であり、この贈与と返礼における時間の差異が贈与を贈与たらしめているという事実である。つまり本文では少々強引ではあるが、差延が生じるものと両者を理解して、贈与と互酬を一つのコミュニケーションの形態として一旦まとめて考えている。
15. 功利的な経済観をもった近代・現代人にとっては疑問かもしれないが、その外部に存在する人間のまなざしを持ってみれば、何ら疑問はないのかもしれないということは付記しておきたい。

第1章 チアパス:自治・自律への意志と
構造的暴力の狭間で


チアパスとEZLN

 講義にモグリで入った一年は、初めてのメキシコシティ暮らし、久しぶりの大学生活と、とても充実した時を過ごしました。当時は毎日授業に行くのが楽しみだったのですが、翌年UNAM(ウナム)に本入学して研究も半ばに入ると、そろそろ生活レベルでの非資本主義的実践をこの目で見てみたいという気持ちでうずうずしている自分が抑えきれなくなってきました。マルクス主義が基礎知識として議論される批判的土壌において、激論を交わすのは素晴らしいことなのですが、僕ら研究者を含む都市生活者の実践が棚上げにされていることがどうしても納得できず、高踏理論(ハイ・セオリー)ではなく、もっと地に足をつけた議論を展開したいと自分なりに模索する日々が続きました。

資料1 チアパス地図(Google Mapsより著者編集)

 幸いにも、ラテンアメリカ研究科修士課程では第3セメスターに半年間フィールドワークや文献資料収集に、自らが研究対象とした場所に交換留学なり、研究滞在をしていいことになっています。そのため、その留学制度を利用して、チアパス州の古都サン・クリストーバル・デ・ラス・カサス(以下サン・クリストーバル)という場所に研究滞在をすることに決めました。日本人の滞在経験がある方にはサンクリと略されて呼ばれている、あの街です。先住民コミュニティがとても近い場所で、主にマヤ系のツォツィル語(tzotzil)やツェルタル語(tzeltal)が最も頻用されている、山あいのコロニアル都市。1994年にEZLNが武装蜂起した時に、一時的に占拠した町の一つでもあります。
 チアパスの概況を理解するにはその「歴史的忘却」ともいうべき不在感をまず理解する必要があると思います(Aubry, 2005)。しかし、それは正史の中での不在感であり、その薄い存在感はある種の無法地帯としての、つまりスペイン人入植者(後には大農園主)たちがやりたい放題できる場所としての性質を示すものでもあります。19世紀になると大農園に多くの土地が接収され、その後も独立やメキシコ革命の恩恵を受けることなく、先住民の隷属状態は続きます。カルデナス政権期になってから土地の割譲が進んだとも言われますが、アクセスが悪かったり栄養分の乏しい土地であったりしました(Núñez, et al., 2013: 38)。州全体としては広い面積を持ちながらも、先住民や農民にとっては農地の確保が常に最優先課題となってきたということをまず理解しておくことがEZLN登場の背景を理解する上でとても重要です。 
 EZLNは複雑な形成の歴史を持っていますが、その組織結成自体は1983年に遡ります。60年代後半〜70年代の都市部学生運動への弾圧により、地方でのゲリラ活動へと戦略を移行したグループがチアパス先住民たちと合流し、密林の奥でひっそりと規模感を増していきます。また、同時期に解放の神学と呼ばれるカトリックの一派が布教活動を拡大したことも後の村落間ネットワークの構築に大きな役割を果たしました。90年代に入るとメキシコでは新自由主義経済が加速し、主食であるトウモロコシの価格保障の撤廃など、大きな政府が急速にコンパクト化され、それまで行われていた農村援助を打ち切っていきます。その後、追い討ちをかけるかのように、北米自由貿易協定(NAFTA)が締結され、安い米国産農産物がメキシコに流入することになります。そこで一番影響を受けたのは、メキシコシティ以南の先住民人口の多い州、つまり小規模農業が生活の中心となってきた地域でした。
 EZLNはこのタイミング、1994年の元旦に武装蜂起してチアパス東部の諸都市を一時制圧します。事態を重く見た時の政府は軍を本格導入しますが、EZLNに同情的な世論に押され、同月12日に停戦合意します。そこから対話を通じ、先住民の自治への権利を盛り込んだサン・アンドレス合意(1996)に至るまで、一般参加者、政府代表、学者、先住民組織、EZLN、NGOなどの幅広い参加を得て、話し合いの機会がなんども持たれます。しかし、ここでついに獲得されたかのように思われた先住民自治の諸権利は、結果的にメキシコ政府によって反故にされてしまい、その後も法的進展はありません。
 この歴史的流れと同時並行で、EZLNはサパティスタの名の下に自治コミュニティ連合をつくり、統轄地域を5区域に分けた自治政府を形成していきます。また、政治、経済、社会、教育に至るまで全て自前で行なって行くことを目的として、良き政府統治委員会(JBG)を立ち上げます。このように、EZLNの活動には明らかにアナーキズムとの親和性があります。もともと権力奪取を志向しない組織として、彼らが国の議会に入って政党を立ち上げるということはしない(注1)とはっきり明言しており、自治組織の形成という方向性は早くから彼らの中で決まっていたのだと思います。
 しかし、この自治コミュニティ形成の道のりは単純なものではありません。時の政府も戦略を変え、低強度戦争(注2)と呼ばれる反政府勢力の力を徐々に弱体化させていく作戦を展開します。具体的には、政府支持の引き換えに戦略的支援を行う村や家族を創出、軍の投入によるパトロールの継続、自治組織のリーダーの籠絡、殺害及び脅迫、準軍組織の導入など、多岐にわたるリソースを駆使した長期戦略です。その作戦展開のさなかで起こった1997年12月のアクテアルにおける虐殺事件(注3)は未だに人々の記憶に残る痛ましい事件です。この時期の分断が原因となっている各村の小競り合いは未だに続いており、時に住み慣れた村を出て行かなくてはならないというような事態も散見されます。
 また、EZLNは蜂起当初からネットやメディアを有効活用する(注4)ゲリラ組織として世界で知られるようになりました。中でも蜂起初期から後15年ぐらいの段階で特筆すべきは、彼らのその時々の指針を示すラカンドン密林宣言です。この声明は現在第六宣言まで存在しており、その時々の組織の有機的な変化を読み取ることができます。第一宣言(1994)はメキシコの中でのチアパスという場所の集団的な忘却と略奪の歴史に耐えかねて蜂起する旨を、淀みのない文章で記述しています。これはやはり当時のマルコス副司令官(注5)を中心とした都市インテリの影響が大きくあってのことだったのだろうと思います。
 蜂起時は土地の分配という問題が最優先事項の一つであり、実際にEZLNは60.000ヘクタールに及ぶ私有地を蜂起後の数日に制圧・接収しており、それを再分配することで、事実上のメキシコ革命の約束であった農民への土地分配を自らの手で行います(Villafuerte, et al., 1999: 131)。この動きは周辺地域の人々にも大きな影響を及ぼし、土地の回復運動がサパティスタではない先住民の間でも起こるようになります。メキシコ革命の雄サパタは、「土地は耕す人間のもの」というスローガンを革命時に提唱しており、まさに革命の継承者としてのEZLNの行動は市民社会の熱狂的な支持を受けました。  翻って2005年末に発表された第六宣言はもっと簡潔な筆致で、主体としても先住民が前面に強調されて出て来ています。また、反資本、反新自由主義の姿勢を明確に提示しており、サパティスタの視野が、メキシコのみならず世界全体のシステムがもたらす不公正に対してまで広がったことを明らかにしています。この第六宣言は、セクスタと現地では呼ばれ、その思想に賛同する人たちや組織は宣言発表当時サパティスタに協調を表明することである種の同盟関係に入ることができるものでした。
 これは、アントニオ・ネグリやマイケル・ハート(2003)のいう「中心のない権力のネットワーク」の構築を狙ったものであり、反資本という物語のもとに広く連帯をはかろうという、緩やかな互酬関係への招待ともいうべき試みです。つまり、見田宗介氏(2006)の言葉を借りれば、連合体としての交響するポリフォニー、柄谷行人氏(2010)の言葉を借りれば、回帰する高次元の贈与、交換形態Dによるアソシエーションの可能性の模索であると言えるかもしれません。しかし、いかんせんその社会的インパクトは未だ小さく、反資本・反新自由主義という物語が大きな影響力を持って多くの人に互酬を力動させるということの難しさを僕たちに示しているのだと思います。

資料2 レアリダJBGの建屋ドアにかかっていた金属板(著者撮影 2015.04.08)

 2003年より、EZLNはもとアグアス・カリエンテスと呼ばれた自治政治の5つの区域分けをカラコル(注6)という名前にして編成し直します。そこで立ち上がった5つの「良き政府統治委員会」(JBG)の下に行政区としてMAREZ、さらにその下の最小組織としてのBAZという3段階の領域統治構造を作ります。興味深いのは、これらの3つの組織が権力的には水平であり、JBGがBAZに対して多数決の原理で政治的決定を強制できないということです。時間をかけて話し合うこと、直接民主制ならでは決定の遅さがありますが、もっとも禍根が残らないようにするためには、しっかりと時間をかけなくてはならないということなのです。
 カラコルの内部には独自の教育施設、医療施設なども用意されています。もちろんNGOの援助を受けたりしている部分もありますし、貨幣もメキシコ国内で流通しているものを使っており、「独立」状態にあるわけではありませんが (注7)、自律社会の構築という点においては、我々の100歩先を行っているといっても過言ではありません。
 EZLNはそれからも常に、インターネットサイトと実際の活動を通じて意思表明をしてきました。しかし、様々な試みの成功や失敗の中で、支持者は大きく減り、いまや最大の敵は繰り返し立ち現れる、人々の記憶からの忘却というテーマなのかもしれません。僕がもっとも印象に残っていているのは2015年に開催されたセミナーでモイセス副司令官が何度も「まず組織することだ」と言っていたことです。資本主義を分析した時、EZLNはそれをヒュドラにたとえます。首を切ってもまた生えて来る怪物は、飽くなき剰余蓄積を目指し、あの手この手で空間を支配しようとする資本のシステムの比喩として秀逸だと思います。それだけ大きな相手に対抗するには「組織すること」がまず最初のスタートであると、モイセスは自身のここ数十年の経験から語っていました。
 2018年のロペス・オブラドール政権の成立は、国内外の左派を分断し、政権に痛烈な批判を浴びせるEZLNを快く思わない政権支持者が数多くいることもまた事実です。高い支持率を誇る現大統領は先住民の権利認知という点で様々なデモンストレーションを行ってきましたが、チアパスの紛争状態は昨年も悪化しており、国家というものの限界が明らかになっています。政党が変わったとはいえ、過去の負の遺産を解消して行くことは容易ではないということです。
 またEZLNは近年フェミニズムとも親和性を深めており、女性だけの会合やワークショップを開催したりもしています。EZLNのリーダーとしても女性たちが増えてきていることは間違い無く、男性優位社会の解消というテーマも重要なアジェンダの一つになっています。

EZLNコミュニティを目指すが・・

 さて、フィールドワークの話に戻りましょう。小田実氏(1979)のごとく、「なんでも見てやろう」主義の僕は、とにかく現地に赴いて話を聞くなり体験してみるタイプで、チアパスでもコミュニティで住まわせてもらうことを念頭に、場所選びを始めました。まずはEZLNに直接交渉です。しかしその年が進むにつれフィールドワークできるのか、どんどん雲行きがあやしくなってきます。2015年3月末にEZLNの拠点の1つであるレアリダを壁画制作ボランティアで訪れていたこともあって、ガレアーノの死以降の緊迫した状況を自分の肌で感じ取っていたゆえに、僕の曖昧な研究計画では受け入れてもらえないのではないか、と思っていました。同年8月、案の定受け入れ不可との回答をもらい、EZLNをめぐる研究計画は振り出しに戻ってしまいます。

資料3 レアリダでの壁画制作風景(著者撮影 2015.04.11)

 この壁画制作というのは、2015年の3月末から4月初の2週間、米国人の運営するNGO組織が主催したもので、EZLNが新設した学校の一部とコミュニティ食堂の外壁に壁画を描くというものでした。その頃僕はレアリダ周辺のラス・マルガリータスという地域を拠点とした研究を考えていました。しかし、ガレアーノという自治学校の教師が2014年の5月に周辺コミュニティの村人たちによって殺害されたことで、周辺地域一帯の緊張が高まります。僕が行った時はまだ負の感情がくすぶっており、抑えても抑えきれない怒りが静かにレアリダに充溢しているのを感じました。制作の中で少しずつサパティスタのメンバーたちとも会話を交わしたり、時にはバスケットボールをするようなこともありましたが、滞在研究の許可に関しては、まだ相当時間がかかるだろうという印象を受けました。
 それで結局一番アクセスのいいオベンティックという拠点に行くのですが、先述の通りにべもなく断られてしまいました。昔は多くの研究者を受け入れていたEZLNも、あまりに多くの研究者や報道関係者たちが虚偽の事実やメンバーの個人的なことを書きすぎたため、最近では積極的な受け入れは行なっていない状況です。
 しかし、そこから間髪を入れずに僕の研究は急展開を迎えます。限られた研究滞在時間というとてもアカデミックな都合もあったので、サパティスタコミュニティでのフィールドワークは諦め、サン・クリストーバルに到着してすぐに出会っていたホセというシナカンタンという行政区に住むツォツィル人のところで厄介になることに決め、自治コミュニティでの滞在研究をスタートしました。そこからは平日を村で過ごし、週末には町に帰ってきて洗濯などの雑事を済ませたり、友人たちと一杯飲んだりという生活が始まります。

ホセとの出会い

 ホセと出会った日のことは今でもよく覚えています。サン・クリストーバルで最初の数日居候させてもらった友人の家で、ある朝コーヒーを飲んでいたら2階から同じく一泊していたホセが降りてきたのです。そこで彼の村のことを聞かせてもらい、直感的に心を揺さぶられるものがありました。早速その月の終わりに村へ案内してもらい、そこでフィールドワークをする可能性を検討し始めたのです。
 当時ホセは45歳、先妻と別れ自由に暮らしていた頃で、村とサン・クリストーバルを頻繁に行き来していました。ホセの村はサン・イシドロ・デ・ラ・リベルタ(San Isidro de la Libertad、以下SILと略します)と呼ばれるところで、州都トゥクストラへの旧街道を少し行ったところにある動物園(というにはほとんど動物がいなかった)と呼ばれる場所で乗り合いバスを降り、さらに40分ぐらい、ミルパ(注8)がところどころにある獣道を徒歩で歩いていかなくてはなりません。
 ホセはすごい男でした。とにかくなんでもできる人で、若い時には移民も経験して、米国にも一年不法滞在していたと言います。移民は僕の中でもとてもアツい話題だったので、どうやって米国まで向かったのかと聞くと、行きはコヨーテ(注9)の手引きで、帰りは徒歩で帰ってきたと、平然として言うのです。現地では庭師として働き、真面目な働きぶりが認められ、出入りしていた中国系の家族から娘と結婚しないかと言われた、と笑いながら話してくれました。

資料4 SIL周辺地図(中央部右円内に村が存在する、地図は引用後著者編集 (注10))

 米国政府に全くその存在を知られることなく、国境を越えてまた帰ってきたホセ。ユカタン半島にも出稼ぎに行ったことがあり、安物のお土産を高値で観光客に売りつけていたそうです。僕はその人間的なたくましさにすっかり魅了され、毎日いろんな話を聞かせてもらっていました。そういった経歴を経ながらも、結局は自治コミュニティの立ち上げに尽力し、EZLNや自治の可能性について熱く語る彼をみて、その動力の根源を理解したいと思いました。

資料5 ミルパでトウモロコシを手にするホセ(著者撮影 2015.10.14)

 ちょうどその頃、村に向かう道にはモモやリンゴがたわわになっていて、秋の訪れを感じながら足早に村に向かっていたことを覚えています。最初の頃は、桃のせいなのか、陶淵明の『桃花源の記』のことをよく考えていました。簡単には入れない場所にひっそりと佇む桃源郷。そこでは戦火を逃れた老若男女が幸せに暮らしていたというのがその話の筋書きです。SILも元は隣村チャフト(Chajtoj)やサン・イシドロ(San Isidro)(注11)と一つの村を構成していました。しかし、サパティスタ蜂起後の騒乱に呼応したことでチャフトと分裂、さらにその後政党に加担したサン・イシドロからも離れ新たに設立されたコミュニティです。また、一時期政府や政党とつながったことがサパティスタから問題視され、2005年にEZLNとも袂を分かつことになります。まさに理想郷の建設を求めて立ち上がり、その試みが失敗に終わった後に、また偶然できあがった平穏な暮らし(注12)。そんな印象を当初は受けていました。

SILでの暮らし:隙間にできたユートピアにて

 いざフィールドワークという段階になって、最も戸惑ったのは、贈与というものに関して体系だったインタビューを行うことが容易ではないことでした。「贈与と認識されることで、それが贈与でなくなる」というデリダの命題(あるいはジレンマ)は有効であり、妙に贈与を意識させて現地の人たちに悪影響を与えてもつまらないし、何より全体的社会的事象について知りたいわけだから、参与観察しながらとにかく多くの人たちと色々話して行くことでようやく少しその片鱗が見えてくるものなのです。と、今でこそ難しいことを言ったりもしていますが、実は何もかもわからないまま、とにかく飛び込んだというのが当時の僕でした。それでも、無我夢中でやっていた、「とにかく暮らしてみる」という参与観察のスタイルが実は研究に最も合致したものだったのだと、後年わかってきます。
 村に着いてからまず、村会議の場で自分の来訪の目的を説明します。色々と村の自治のことを教えてもらいたいが、その代わりに自分も返礼できるものがないといけない。贈与と返礼の関係がないまま、一方的に情報だけをもらうということは、研究としてはそれで成立するのでしょうが、僕自身にはしっくりきません。それで、小学校の先生のボランティア補佐をすることを条件に村に住まわせてもらうということを提案します。また、来たる村祭りへの寄付も少々行い、少し警戒心が解けたのを感じることができました。それからは、毎日、午前の小学校の授業の傍ら(といっても算数と読み書きやバスケぐらいしか教えられるものはなかったのだが)、ホセの仕事を手伝ったり、村の共同作業にも顔を出して、とにかくいろいろ話を聞きながら、彼らが贈与・互酬的関係をいかに制度的に維持できているのかを理解しようと努めました。
 僕が行った時は少し勢力が弱まっていたものの、SILは活気のあふれるアナーキーな場所です。例えば電気代が不当に値上がりした時のことです。村で話し合い、支払いを一斉にやめてメキシコ連邦電力委員会(CFE)から作業員が送電を切るためにやってくると、捕縛し村の牢屋に閉じ込めて(注13) 、彼らを人質に電気代の交渉をしたと言います。それで、この周辺地域の電気代は無料になりました。でも、電気をやたら浪費したりしているわけではありません。CFEも消費量の割に、値上がりの度に作業員を拘束されてはたまらないと思ったのでしょうか、当時の電気代無料契約は今も有効です。
 また水も自前です。雨期は雨水利用がもっぱらですが、乾季は雨期に大型貯水槽に貯めておいた水を重宝します。その貯水槽もスペインのNGOの協力を取り付けて、政府の援助なしで用意しました。さらには、サン・クリストーバル周辺で認められている運転免許証もあるのです。出生証明までも村で発行することになっており、子供達の中には公的に存在を認知されていない子達もいました。教育機関もまた、近隣の大学(CIESAS)や大地大学(CIDECI-Unitierra)(注14) との協業でカリキュラムを作り、シュンとシュンカという若い夫婦を新たなコミュニティ小学校の教師として据え、独自の教育を行っています。
 以前はツォツィル語も話せない先生が中央機関から送られてきて、その先生も辺鄙な場所での教育に飽いたのか、酒に溺れることもしばしばで、ちゃんと授業が行われてきませんでした。こういった状況を看過できないと、村の人たちが協力して学校を占拠、教師を追い出して、新たな自治教育の枠組みを外部と協力して作ったというのだから、すごい行動力です。 
 この村はグーグル・マップにも表示されず、公的機関からは認知されていない村です。しかし、認知されていないからこそ低強度戦争のような状況も活発化していないし、周囲が軒並み政党寄りやプロテスタント系の宗教寄りになっているなかで、ひっそりと自分たちの自治を守っていくということも可能になっている側面があるのだと思います。 

資料6 年末マリアーノ宅で食事の招待を受ける(著者撮影 2015.12.28)

 上記写真手前の男性がシュンという当時小学校の先生をしていた人なのですが、なかなかの好青年でした。学校終わりに家に呼んでもらうこともあり、僕も野菜やお酒(注15)を片手に何度かお邪魔したものです。そうやって一緒に一杯飲んでいたある夜、一人の女性が女の子を連れてシュンの家のドアを叩きました。何やら深刻なお面持ちで話し込んだあと、シュンがおもむろに木の枝を切り取ってきて、女の子の体から木の枝で何かを払うような動作をしながら、ポッシュを吹きかけていました。シュンはクランデーロ(注16)としての才能も持っているようで、時折近隣の人が必要に合わせて助言や儀式の依頼に来ていたのです。女の子は恐怖体験や強烈な出来事を経験した後に陥りやすいという一般にエスパントと呼ばれる状態にあり、シュンが行なったのは一種のお祓いのようなものでした。
 彼は村の中でも特別な存在だったと思いますが、SILの人たちの暮らしぶりを見ていると「なんでもできるやつら」であると畏敬の念を覚えざるを得ませんでした。その彼ら・彼女らの前には、まるで赤子のような自分がいるのです。山刀(マチェテ)ひとつろくに使えないし、トウモロコシをトルティージャにすることもできないし、家の建て方や補修方法も、畑の耕し方も、家具の作り方も、ネズミの捕らえ方も、まるで何も知らないのです。おまけにツォツィル語は話せないし、とんでもない無力感です。そういった実感から、生活においては自治と並んで「自律」と言う言葉の意味の深さを思い知らされました。
 ホセが出かけてしまった日には、コマル(注17)に火をくべようとするのだけれども、風は強いし手はかじかんで、なかなか薪に火をつけることすらできません。オコーテと呼ばれる燃料になる木材にまずは火をつけるのですが、それもある程度小さく切っておかないとなかなか着火しないのです。そんな基礎中の基礎も分からぬまま、多くの人のお世話になって(日本でもメキシコでも僕は今も多くの人の世話になり続けている)、つまりは多数の人の贈与を受けて三ヶ月以上もその場に暮らさせてもらったのです(注18)。それだけに共同作業などはここぞとばかり、恩返しだと思って参加していました。
 共同作業は、例えばインフラ整備や祭りの準備などで、村議会を通じて仕事の内容と日程を決めます。政府の援助を受けていないということはまた、インフラ整備も自分たちで行わなくてはならないということなのです。僕が参加して印象に残っているのは、道路整備の仕事でした。村ごとに区画を決め、土砂を投入して、道を平らにして行きます。鍬や鋤、シャベルなどの基本的な道具で行うので、大変な重労働でした。仕事が終わると皆でご飯を食べて、タバコが振る舞われ一服して解散となります。
 こういった力作業はジェンダーによる分業がはっきりしており、男性が主に担当していました。その一方で、女性たちもまたたくましく、日々を生きていました。織物が伝統工芸として有名なシナカンタンに位置するSILでは、女性たちは日頃家事や農作業の傍ら織物を織っています。僕が滞在していた頃には、村の自治中学校のイニシアティブでパソコンケースを作ったことがありました。女性たちが組織・采配して、皆で一斉に生産を始めた姿を見て、組織力の高さとコンセンサスの必要性について考えさせられました。この共同作業は一人の女性がサン・クリストーバルでの個人的な販売に舵を切ってから、徐々に破綻していきます。そのことを咎められたのでしょうか、その女性は夫の村に住むようになり、SILにあまり寄り付かなくなりました。金銭が絡む時、連帯を通じた経済を維持して行くことの難しさがこの小さな例からも見えてきます(注19)。

資料7 織物を織る女性たち(著者撮影 2015.11.11)

ツォツィル人の瞬間の哲学 レキル・クシュレハル

 ツォツィル人やツェルタル人の間ではレキル・クシュレハル(Lekil Kux-lejal)(注20)と呼ばれる彼らの生活哲学があります。これは同じチアパスに住むトホラバル人の間ではレキラルティック(Jlekilaltik)と呼ばれるもので、簡単に言えば人間同士及び人間と自然との調和状態を指す言葉です。先述の通り、先のエクアドルとボリビア憲法へのブエン・ビビール(善き生)というアンデス及びアマゾン先住民の哲学の導入は、メソアメリカ研究者たちにも大きな影響を与えました。結果として、メキシコの研究者たちは、メキシコ先住民の哲学というものを再検討し始めます。その中でレキル・クシュレハルの概念も再度脚光を浴びるようになりました。
 9月のある日、ホセの親類の畑作業を手伝うことになった日のことです。仕事内容は鍬を使って、ソラマメ周囲の土を掘り返しながら雑草を刈り取っていくという単純なものでしたが、これがなかなか慣れない自分には重労働で、若者もおじいさんもスイスイと作業を進めていく中で僕だけが息も絶え絶えになりながら鍬を振るった記憶があります。作業がひと段落すると昼飯の時間で、女性グループが畑の真ん中で作ってくれた野菜スープを食べました。それがとても美味しくて、思わずホセの顔を見た時に、「これがレキル・クシュレハルだ。」と、彼は僕に向かって言ったのです。
 この一見ありふれたような経験は衝撃的で、深い余韻を残します。友人や家族に囲まれ、土地のものを食べて、人生が満たされた感覚の中にこそ、このツォツィル人の瞬間の哲学を感じることができるのだということ。僕自身も労働の後の食事という心地よいひとときにその言葉が出てきたので、納得がいった気がしました。
 それから5年近い時を経て、僕はボリビアの先住民に例の「善き生」とは彼らにとってなんなのかと聞いた時に、ホセとほぼ同じ回答を得ることになります。僕は事前の書籍研究から、ある種のかなわぬ理想状態を指すのではないかという疑念を抱いていたので(注21)、ボリビアのケチュア人たちが「家族が集い、共同作業をして、冗談を言いながら飯を食う時に実際に感じられるものだ」と言った時(注22)、全てがつながるような感覚を得ました。つまり、このコンセプトがアメリカ大陸の先住民に通底して存在する可能性と、アカデミズムがこぞって作り出した幻想ではないということを経験的に理解した瞬間でした。

資料8 農作業の中でシェアした食事(著者撮影 2015.10.27)

 僕らの生活を振り返ってみると、僕らは「いまここに佇むこと」を技能としてすっかり忘れてしまっているのではないでしょうか。これに関連し、哲学者の古東哲明氏(2011)は近代のもつ貯蓄精神を批判します。今ここではない未来時のいつかどこかに生活の力点を置いて生きることは、僕らの時代ではスタンダードになっています。社会もまたそんな人生設計から逃れられないような強要を常に強いてくるのです。
 レキル・クシュレハルは今日において、この直線的な時からの解放の瞬間を示す言葉なのだと僕は思います。つまりそこには生が充溢する。再び古東氏の言葉を借りれば、「死の不安の消失体験(死の死)」、であり「時間の秩序から解放される」ことであり、これがすなわち「脱時間の次元」なのです。まさに「瞬間を生きるということは刹那滅構造(生死のさなか)の生の純粋形(ゾーエー)を忠実に豪快に生きることに他ならない」(2011: 156)のです。
 また、レキル・クシュレハルは同時に義務の履行がその瞬間を支える屋台骨になっていることを示唆しています。まず、コミュニティに、親族に、友人たちに尽くしていること。土地の神々や聖人・聖母への畏敬を忘れず、日々欠かさず祈りをあげていること。つまり、贈与の均衡感覚の中で、瞬間を大切な人たちとシェアしている感覚、これこそがその概念的本質なのではないかと、彼らと話す中で考えるようになってきました。
 だから、地方行政や村の政治が、国家という枠組みからは考えられないように、国家的レベルでの「善き生」の実践など、話が大きくなりすぎてレキル・クシュレハルの本質から逸脱してしまっているのだと思います。ボリビアやエクアドルなどの国家プロジェクトとしての導入失敗はその実態を如実に示しているのではないでしょうか。この感覚は集団的ながら、とても個人的なところにあるものだからです。つまりその生起するところがもっとアナーキーな場所にあるため、国家という枠組みとは相容れないものなのだと思います。
 しかし、レキル・クシュハルの話になった時、必ず出るテーマなのですが、「先祖たちにしか感じることができなかった」、あるいは「感じられる機会が少なくなっている」という現在多くの人たちがシェアしている危機感があります。そして、時とともにその意味の変遷も観察されています。近代的で物質的な環境の充足だったり、政府の言う生活レベルの「向上」をレキル・クシュレハルだと言ったりする人たちも出てきているのです。これは南米アンデス地域でもブエン・ビビールという概念をめぐり、全く同じ現象が起こっています。現在におけるレキル・クシュレハルとはなんなのか、共に考察し再定義を続けて行く必要があるでしょう。

構造的暴力の中にあるチアパス

 穏やかな暮らしが村生活の実態であることは間違い無いのですが、その生活の中にも緊張はあります。政党や宗教による介入で思想・宗教の入り乱れるチアパスでは、紛争の火種が静かな日常の中でくすぶっている状況があります。特にお酒が絡むと暴力沙汰などに発展することもしばしばで、長く滞在すればするほどそういう危うさも見えて来ました。隣の村のグループとは言っても、隣人であり、またせまい関係ですから、家族関係にあることも多々あります。しかし、家族間でもイデオロギーの違いを尊重し合うというよりはむしろ、あきらかな分断が生まれているという印象です。
 SILにおいて、ホセとマリアーノの2人は自治運動の中心リーダー的な存在であり、他の村でも彼らの存在は良く知られています。1月からのカルゴ(注23)交代を控えて、隣村の2村がなにやら良からぬことを企んでいるとの噂をききつけたホセは少し警戒しているようでした。ホセの話は魔術的で(注24)、時に本当なのか作り話なのかよく分からないのですが、その時は真剣な面持ちで「命を狙われているかもしれない」と言っていました。
 11月のある夜のことでした。その日は朝からホセが今日は来客が来ると言って、せっせと干し肉のスープを作ったりしながら、二人で談笑していました。昼をだいぶ過ぎてサン・クリストーバルから3人の来客があり、うち2人は村が初めてということで、ご飯を食べた後に村の中心部をホセと一緒に案内しました。到着が遅かったため、彼らが村を出るころには日も暮れ始めており、乗り合いのワゴン車が来る国道まで小一時間かけて見送りに行った時には、すでにあたりは真っ暗になってしまいました。彼らと別れた後、僕とホセが帰路につこうとすると、一本道の後方から見慣れないピックアップトラックがゆっくりと近づいて来るのが見えました。
 ホセはとっさに「見たことない車だ、隠れるぞ。」と言い、急に道から右にそれてきつい傾斜のある杉林の方に僕を誘導しました。暗くて何も見えない中で、突然の恐怖に襲われながらも、死角となる斜面で息を潜めていると、車は少し速度を緩めた後去って行きました。もしかしたら、なんでもない普通の車だったのかもしれませんが、低強度戦争開始以来の緊張は今でも続いており、暴力の連鎖は自治コミュニティの存立を常に脅かしていることに気づかされた瞬間でした。テリトリーの防衛というものに時間と財源を割かなくてはいけないというのは自治コミュニティにとっては大きな障害であることは間違いありません。EZLNも常にこの点に関しては苦慮し続けていま(注25) 。
 このように、チアパスは次章で触れるオアハカ北部山地にはない緊張感の中に生きていると言えます。潜在的な暴力の可能性は自治コミュニティのメンバーたちを萎縮させ、自律的な生活の中にセキュリティ維持という項目を追加で検討せざるを得なくなります。EZLNは今の民主主義的と思われているロペス政権下でも構造的な暴力が以前と変わらず先住民コミュニティに行使されていることをサイトから告発しています。
 ホセは自治の最大の問題は個人主義だと言っていました。政府の援助政策は収入の違いや耕地面積など、細かい各家族の違いで受け取れたり、受け取れなかったりします。政党は選挙での投票を約束させようと、物資を配ったり食料を配布したりしてきました。またプロテスタントの会派は個人の救済を訴え、家族やコミュニティを分断してきました。そういった分断を乗り越えて、自分たちの居場所を、話し合いを通じて統制しながら居場所を維持して行く。並々ならぬ努力が必要です。
 しかし、1994年の分水嶺を超えたチアパスにおいて、先住民自治コミュニティは、自分たちの権利を認識し、(少なくとも一度は)長きにわたる上からの統治の楔を抜き取り、緊張の中にも自分たちが自治共生していける空間を得ました。この歴史的経験は今も続き、これからさらに多くの村が政党などに買収されるようなことがあっても、闘争と自治の集団的記憶が残る限り、自治への渇望はいつでも再起する可能性があると僕は思います。
 メキシコではデモのシュプレヒコールにいつもサパタが出てきます。Zapata vive, la lucha sigue(サパタは生きている、闘争は続く)、というものです。 今日も自治、テリトリー、その内部での互酬の可能性をめぐり、チアパス先住民たちの闘争は続いています。

資料9 サン・クリストーバルのサパタの壁画(著者撮影 2015.05.05)

第一章 チアパス篇脚注
1. 一時期PRDと共同戦線を組んだこともあるが、後に声明で誤りであったと認めている。
2. 米国の冷戦期第三世界における対ゲリラ戦略として考案されたもので、直接戦闘ではなく間接的に反政府勢力を弱体化させていくものである(Pineda, 1996)。
3. 同年12月22日、チェナロー行政区アクテアル村に準軍組織が侵入、村民45人を殺害した事件。政府や軍の関与も指摘されており、25年目になる現在も未だに係争中の事件である。
4. EZLNは今もインターネットサイトを活用している。具体的な内容は、以下サイトを参照のこと。https://enlacezapatista.ezln.org.mx/
5. 2014年5月、レアリダでのガレアーノという組織メンバーの虐殺の後、翌年の2015年以降は故人の名をとってガレアーノ副司令官と改名した。
6. カラコルとはカタツムリのことであり、その動きの遅さは自治の進行の遅さの比喩であり、甲羅の形状は中心から外円へと広がりつつも外円から中心へと収斂しているようにも見えることから、権力の所在の比喩にもなっている。彼らの標語は「遅いが進んでいる(lento pero avanzo)」と「従属しながら統治する(mandar obedeciendo)」であり、自分たちの政治中枢であるJBGの所在地をカラコルと呼んでいるのである。脱成長論でも、カタツムリという象徴が時に用いられているという符合は興味深い。
7. モイセス副司令官は会議で「僕らはスーパーマンではない」と、左派の若者たちが熱狂的に彼らの理想像を作り上げようとしてきたことを諌めていた。彼らもまたサッカーが好きでバスケが好きで、コカコーラも大好きな一般的な人たちであること、これはいつも肝に命じておきたい。
8. ミルパとは伝統農法で管理された農地のことで、主にトウモロコシ、マメ、カラバサ(ズッキーニのようなもの)を中心に、主食となるものを栽培している。ミルパで生産されるものは多くが自家消費用である。
9. 不法移民仲介道先案内人のこと。
10. 引用先: https://www.ceieg.chiapas.gob.mx/productos/files/MAPASMUNDC/Base_Zinacantan.pdf.pdf
11. 名前が同じなのでややここしいが、サン・イシドロは政党寄りコミュニティ、SILは自治コミュニティで、2つは別物である。
12. 西洋の目指すべき理想としてのユートピア(目的論的)と陶淵明において描かれた、夢敗れた後に、つまり厄災の後に立ち上がるコミュニティを一つの理想郷(偶発的)とする、この違いは示唆に富む(伊藤直哉『桃源郷とユートピア』(2010))。
13. 自治を行なっている村は基本的に慣習法に基づいて、規律違反などがあった場合、村が各自持つ牢屋に短い期間収監する。例えば、酔っ払って誰かを殴ったというようなことがあれば、即牢屋に入れられ、その後の対応は村議会で話し合いの上で決まる
14. 大地大学は元もと先住民の専門学校のような機能をもち(CIDECI)、当該研修コースは非先住民には開かれていない。しかし、Unitierraとしては、各種勉強会などをかなりの頻度で行っており、これは誰でも参加できる。EZLNの活動拠点としての側面もあり、2019年からは新たなカラコルに指定された。この施設はSILとも深いつながりを持っており、コミュニティの様々な問題のアドバイザーや農産物の買取先としても機能している。
15. 村の金銭感覚ではビールは高いのであまり口にせず、ポッシュ(pox)と呼ばれるサトウキビやトウモロコシ、麦などを合わせて発酵・蒸留したお酒がよく飲まれる。アルコール度数は体感35-40%で、村では量り売りで購入していた。ホセは庭で取れたフルーツや薬草を漬け込んだりして、どちらかというと食べ過ぎた時や薬用という感じで使用していた。
16. クランデーロとは、村にいる民間医療従事者で、伝統医療とシャーマニズムを組み合わせたような存在である。このような人たちの存在やその実践は南北アメリカ大陸全体に見られるものである。
17. コマルとは主にトルティージャや野菜などを焼くための鉄板であり、暖炉の上に丸い鉄板が乗っている姿を想像してもらえると良い。
18. グレーバー(2016)はこれを「基盤的コミュニズム」と呼ぶ。すなわち、「誰かに何かを借りている状態、そして誰かに何かを貸している状態であり、そして誰もがその即時的返済を望んではいない状態。ここで生み出される関係こそが人間の基礎的関係なのである」(山田 2020: 125-126)。
19. 連帯経済の資本主義的な意味での「成功」が、相互扶助を下支えしていた物語・倫理を解体する傾向にあることは示唆に富む。
20. レキル・クシュレハルの定義についてはアントニオ・パオリ(2003)がツェルタル人の研究で詳細に検討している。また、自身もツォツィル人である研究者ミゲル・サンチェス(2012)によれば、レキル・クシュレハルとは、コミュニティ内の調和に関わる概念で、人間間、人間と自然間の均衡を司る価値観と行動の総体を指すものである。他にもハイメ・シュリッター(2012)が修士論文でチェナローの実践に即した良質な研究を行っている。
21. ブエン・ビビール、つまり「良く生きること」にはおよそ三形態の解釈パターンがある。1つめは、例えばボリビアのシモン・ヤンパラ(2001)などの主張する先住民宇宙観としてのもの、2つめは自然環境での生物共生という環境主義的な観点で普遍的援用を考えている学派(Acosta, Gudynas)、3つめにボリビア・エクアドル政府のプロパガンダ的利用である。
22. 2020年1月スクレやポトシにまたがるナシオン・カラカラのリーダーであったマリオ・チンチャに行なったインタビューに基づく。
23. カルゴとはカルゴシステムと呼ばれる輪番役割交代制度で、一年あるいは二年に一度交代して、コミュニティ内の雑事から重要な決め事を履行する行政担当役職のことである。詳しくは後述のオアハカの章で触れる。
24. よくホセは自分の見た夢の話をしてくれた。テレビも携帯の電波もない生活は、日常の細かいところに意識が行き届くような感覚を与えてくれたし、何より会話がいつもはずんだ。
25. 前述のカラコル・レアリダでは毎日午後に武装した兵たちを乗せた軍の装甲車が村を通過していた。


第2章 オアハカ北部山地:変化の中のコムナリダ


オアハカ北部山地へ

 修士の課題は時間的限界であり、もっとじっくりとフィールドワークに取り組みたいと思っていたので、博士(メキシコでは4年間)でも継続して贈与論の研究を深めていこうという方針は早々に決まっていました。博士課程では、さらに対象地域を広げ、南北アメリカ大陸の先住民の一般的実践として贈与を追ってみたいと考えます。そこで、メソアメリカ(注1)の経験の一つとしてオアハカという場所に1つ目の焦点を定めることに決めます。というのも、修士の研究の過程ですでにオアハカ北部山地(Sierra Norte)のコムナリダ(Comunalidad)と呼ばれるサポテコ(Zapoteco)・ミヘ(Mixe)由来のコミュニティ生活哲学に贈与論との親和性を見出し、深い関心を持っていたからです。
 オアハカという場所は、メキシコ観光の話になると必ず名前がでるほど近年有名になって来ました。起伏の富んだ複雑な地形は、各民族や地域の文化的表象を維持することに一役買い、今でも万華鏡のごとく特殊性のある各地の風習や民芸が多様な形で息づいています。先述の通り、表層的な話ばかりが一般には取りざたされる地域ですが、政治や経済でも深い部分で先住民自治とは切っても切れない関係があり、知れば知るほど深みのある地域だと言えます。
 オアハカはスペインによる征服時、比較的少量の犠牲をもって、征服者たちに従属することになりました。しかし、オアハカ北部山地はその中でも例外的に、地政学的な攻略の難しさから最後までカトリック教化が進まなかった地域です。鉱物資源がそれほど豊富でなかったことも、他州で起こったような悲劇的状況を避けることができた一つの理由です。とはいえ、植民地政策は先住民のそれまでのあり方を大きく変化させます。中でも疫病の流行で激減した先住民を新たに集住させ、教区、守護聖人、その聖人にまつわる村祭りを導入したことは、今日の各村の組織形態の成立の基礎となっています。
 チアパス同様、独立もメキシコ革命も先住民たちの生活にはそれほど大きなインパクトをもたらすことはありませんでした。また大型の鉱山などの不在から、スペインからの入植者たちもそれほど土地への大きな関心を示さず、先住民の自治が伝統的にある程度黙認される状況が続き、今日行政区が最も細分化された州として知られる現在のオアハカを作り上げていきます。北部山地はその典型例で、実に87%以上の行政区が2500人以下の人口を持ち、分散してアクセスの悪い地域に住んでいるという実態があります(COPLADE, 2017: 3)。
 これらの地域では慣習法に基づくコミュニティ内部での統制が機能し、自治裁量権(慣習法)が認知されており、州憲法にもその記載があります。特に北部山地ではその慣習法の履行が政府・政党の介入の大きな影響を受けることのないまま、潤滑に行われている状況です。しかし、偶然今の状況が完成したのではなく、これも北部山地の闘争の歴史があっての結果だということは忘れてはなりません。

資料10 オアハカ8地域と北部山地当該フィールドの位置(画像より著者作成)

 20世紀になると北部山地でも木材・鉱物などの企業による天然資源の濫用が進みます。その中で国からは企業向けのインフラばかりが整備され、各村は依然として村内外の互助システムを利用しての自主的インフラ整備を進め、国家とは並行的に存在してきた歴史があります。1980年代に入ると、主にサポテコ人の住む地域で木材の伐採を行なっていた製紙工場(FAPATUX)が、周辺地域の25年にも及ぶ森林伐採権の更新をするというタイミングで各村が協力し、政府による伐採権の譲渡に「待った」をかけます。以降、政府との交渉の中で、道路などのインフラの整備が少しずつ進んでいくことになります。

資料11 雲の上に立つ北部山地(著者撮影 2018.08.09)

 僕がフィールドワークに入った地域は、行政区としてはビジャ・アルタと呼ばれるところで、西南部にあるソゴーチョ(Zoogocho)を中心とするセクター(注2)の一部の村に訪問・滞在させてもらいました。この地域もまた90年代のインフラ整備で一丸となり、政府に申し立てを行うなど、コミュニティを統括する上部組織として今日も連合議会が存在し、毎月初必ず村ごとに2人の代表者が参加する形で会合を行なっています。コムナリダというオアハカ先住民の生活哲学はこの闘争の中から理論化されていきます。

資料12 ビジャ・アルタ行政区(Muñoz 2012より引用)

コムナリダを贈与論から紐解く

 コムナリダとは1980年代以降の北部山地の先住民運動の中で、現地出身の人類学者たちの間で提唱されたコミュニティ哲学です。その射程はメソアメリカ先住民全体に共有されるもの(Maldonado, 2013: 22)として理解されており、確かに先述のチアパスのケースから見ても共通点は多数確認できると思います。コムナリダ提唱者の一人であるディアス(2007)によれば、コムナリダは5つの要素から構成されています。1つめは、テリトリー。コミュニティごとにきっちりと統治範囲が決まっていて、そこにある有形無形の資源利用、域内の歴史や説話が共有されています。
 村議会(アサンブレア)もまた重要な要素です。ここには北部山地先住民の民主主義の根本があります。この民主主義の根本とは、直接参加とその決定プロセスの遅さです。人類学者の松村氏(2021)も指摘しているように、村民の納得がいくまで話さなくては遺恨が残り、潤滑なコミュニティ生活が難しくなります。ゆえに問題の規模次第では話し合いが長期化することもしばしばです。さらに、円滑な村生活を可能にするため、現地にはカルゴシステム(注3)と呼ばれる、無償で村の役場仕事を1年交代で担当する制度があります。重要な役職に関しては、ほとんど自分の仕事をすることができず、村のために1年奉仕しなければなりません。
 4つめは共同労働です。テキオと呼ばれるこの無償の共同作業は、インフラ整備から村の財源となる農産物の生産まで、多い時は月に2度ほど招集がかけられ、全員参加が義務付けられています。村役場の建物などもこのテキオで建造されたところが北部山地には多くあります。最後に、儀礼・祭礼の重要性をディアスは指摘しています。各村にはカトリックの守護聖人・聖母が定められており、その生誕を祝う村祭りは、厳かな儀礼の日々に飲めや食えや踊れやの大騒ぎが加わり、大変な盛り上がりを見せます。
 これらの5つのコムナリダの軸は全て個人とその家族のコミュニティ運営への直接参加を必要としています。何をどれだけコミュニティにもたらしたかということが個人の名誉に繋がり、コミュニティの人間として貢献していくうちに人間的評価(評判)というものが定まって行きます。この貢献というのはいわずもがな贈与行為であり、コムナリダを生成する根幹になっています。
 またこの参画型社会は教育的な意味も持っています。学校の義務教育などとは全く違い、実践的な参加を通じて経験的に培って行くものです。カルゴや村議会、テキオでの貢献を通じて共同性のモラルを学んで行く場が用意されているわけです。もちろん、全く仕事をしないものは村八分にあうこともありますし、土地へのアクセス権を失う可能性もあります。
 オアハカ在住の人類学者アリシア・バラバス(2017)はこの義務的な面をオアハカ先住民の「贈与倫理」(ética del don)と名付け、オアハカ全体に占める贈与の重要性を示唆しています。2003年に書かれた短い論文の中で、彼女は米国の人類学者マーシャル・サーリンズ(2012)が提唱する親族関係の近さによる互酬の3形態(注4)を参照しつつ、その中間ともいえる均衡的互酬という概念を取り上げました。しかし、この均衡的互酬は等価交換的な互酬形態であり、これだけに着目していては、導入部分で記述した贈与の背景にある物語・倫理(レヴィ=ストロースの言う浮動するシニフィアン)を見失ってしまいます。 
 さて、上記のことを踏まえて再度コムナリダを見つめ直してみると贈与・互酬の観念が制度的に常に現出しているのがわかります。例えば北部山地のサポテコ人の間で知られるゴソーナ(gozona)と呼ばれる相互扶助は、かつて日本でも見られた「結」に形態が近いものです。オアハカ盆地ではゲラゲッツァ(Guelagueza(注5) に相当する言葉であり、約束として取り決めての、どちらかというと等価性を意識した互酬的労働あるいは贈与行為です。最も簡単な例で言えば「今日はあなたの畑の雑草取りをするから、明日は僕の畑を手伝ってね」と言った取り決めです。

資料13 サン・アンドレス・ソラーガにて著者もサトウキビ搾りに参加(友人撮影 2019.04.09)

 また結婚などの催事には、誰からどんな贈り物をもらったのかをこまめに描くノートも存在しており、きっちりとどこの家族から何をもらったのかが記されています(Ramos, 2017)。返礼はもらった相応分を贈与してくれた家族の次の同様のイベントで返済するのが基本です。ただ、家族という枠組みで贈与主体を解釈しなければ、贈与を受容している個人というのが実は毎回異なっているのが理解できると思います。例えば婚礼の際に、贈与者は受取人の息子に贈り物を手渡しますが、この息子も時が経って贈与者の娘の結婚式で贈り物を手渡すとします。つまり、家族間で言えば贈り物がただ行き来しているだけになりますが、個人で見れば一方通行的に贈与が進行して行くのがわかります(注6)。また、ここには世代にわたる大きなタイムラグが生じており、まさにデリダの言う差延が発生しているわけです。この時間のずれこそが関係の継続性の鍵なのです。
 それに比較して共同作業であるテキオは、「共同寄託」という言葉がふさわしいものです。みな同じ条件でインフラ整備などのコミュニティ全体の福祉向上のために参加し、作業も終盤になると酒や飯も振る舞われて、時には宴会にもなります。大抵は重労働なので、男性が中心となって共同作業を行なっていますが、女性も食事の準備などで協力しており、役割分担がここでもはっきりしています。重労働と言ってしまうと、ただ苦しいだけなのかと思われがちですが、共同作業の間笑いが絶えることはなく、作業終わりには食事を共にし、チアパス編におけるレキル・クシュレハルのような充足感があるものです。
 カルゴは年末の村会議で村長以下各種役職を誰に任せるか、話し合いで決まります。以前は男性がほとんどの役職を占めていましたが、今日では徐々に女性の村長も出てきており、ジェンダーを超えて村のことを理解し、村の外の世界にも精通している人たちがリーダーとして選ばれる傾向にあります。カルゴの数は村の規模によっても決まりますが、下部には委員会というものも存在し、教育や医療などの重要課題の対応を担当しています。その委員会も含めれば、家族の一人が必ず一年に一度は何らかの役職にあたることになります。さらにカトリック教会関係の仕事もカルゴであり、それら全てが無償での奉仕になります(注7)。この教会関係のカルゴというのは次に触れたいテーマであるフィエスタ・パトロナル(聖人祭)と密接な関係を持っています。

祝祭、贈与と瞬間の美学

 北部山地の聖人・聖母祭は贈与の本質とその爆発を感じられる経験です。そこに見られるのは生命の瞬間のきらめきなのだと僕は思います。これは先述のレキル・クシュレハルにも明らかにつながるものでしょう。一年のこの瞬間のために、人生が収斂されるような、そんな感覚があるのです。
 お祭りの日程は、実に祝祭の日の9日前のミサであるノベナリオから始まり、徐々にボルテージを上げて行って、クライマックスである聖人や聖母の生誕祭に至ります。

資料14 ソチーラのカレンダにおいて共同食堂でハラべ (注8)を踊る人たち
(著者撮影 2019.01.31)

 中でも最も多くの来訪客が来るのは本番の2日前のカレンダと仕掛け花火カスティージョが盛大に燃える本番前日、そして当日の3日間です。このカレンダというものは夜に始まり、村全体を楽団と一緒に練り歩き、要所で止まってはハラべを踊るということを何度も繰り返し、最後に明け方になって村の教会に行って、最後の演奏と踊りを聖人・聖母に披露し解散となります。カレンダは祭り本番の始まりを告げる合図であり、コミュニティが再統合・再生し始める瞬間なのです。都市や外国にバラバラになっていた家族たちも集い、通りを埋め尽くした人たちがメスカル(注9)を片手に村を練り歩くのです。
 カスティージョは、塔のように高く建造された仕掛け花火のことであり、暗がりの広場を短い間昼のように明るく照らします。その間も楽団の音楽は鳴り止まず、皆ビールやメスカルを飲んで踊り続けます。このカスティージョは本当に数分で終わってしまうのですが、これには実は多大な費用がかかっています。ジョルジュ・バタイユ(2018)の普遍的経済学を想起させる、圧倒的な剰余の浪費の典型的な例だと僕は思います。

資料15 ソラーガの聖人サン・アンドレスに奉納する伝統舞踊(著者撮影 2019.07.19)

 夜の喧騒の傍ら、朝は毎日厳かにミサが執り行われ、多くの人が聖人・聖母を一目見ようと来訪します。日本の神仏への願掛のように、村人の中には聖人・聖母にお願い事をする人も多く、その願いが成就した暁には返礼として、村祭りに牛を贈ったり、聖人・聖母像に使うための毛髪、聖人・聖母像用の刺繍入りの服、カスティージョにかかる費用を寄付したりします。これは近年の移民の村に対する贈与とも密接に関係しており、複雑な贈与関係を構築しています。 
 最終日は役場の人たちが決めたバンドやグループがやってきて、夜明けまで盛大に飲んで踊ります。このように、体力と肝臓の強さがものを言う3日間ですが、この無礼講の日々が毎日の静かな暮らしとはコントラストを作り出し、村の一年の流れを決定づけているように思います。それだけに、ここ2年間のコロナ禍で訪問客を受け入れられない状況が続いていることは、多くの村にとって自分たちのアイデンティティを再生・再規定する機会を喪失していることを意味します。
 さて、先ほど外にいる人たちが村に帰って来るという話をしましたが、北部山地では1970年代ごろから、米国への移民が頻繁に行われてきました。人口増や農作物の不作などが原因で多くの村人がカリフォルニア州に新天地を探したことがその発端です。今ではビザを有する人や米国で生まれた人も多いのですが、中には村との繋がりを失うことなく、祭りの度に帰って来る人たちもいます。
 この移民たちは米国、メキシコシティ、オアハカ市などで、テキオに参加せずとも土地へのアクセスを有することができるという条件のもと、村への送金を続けています。もちろん、数年間だけ行って帰ってきたという人たちも村には多くいます。以前は「自宅を建てたい」、といった必要性にかられての移民がほとんどでしたが、現在は村でも農業や商売をやりながら暮らしていける裕福さがあるので、むしろ若者が米国での生活にただ憧れて移民するようなケースが目立ちます。しかしそれも正規ルートで、米国籍の移民2世や3世と結婚してビザを獲得するという方法が一般的になっています。
 祭りの日々には移民のみならず周辺の村を中心に非常に多くの人が来訪します。中でも音楽団(注10)は大所帯で関係者も含めるとかなりの人数が食事を必要とすることになります。そのため、訪問者や楽団のメンバーを含め誰でも入って食事をもらうことができる食堂を村側は準備しなくてはなりません。そのため、祭りの期間には牛がまるごと一頭(村の規模によっては複数)、有志から提供されます。この有志が移民であることはしばしばで、米国での稼ぎを聖人・聖母との願掛けが成就した際に、村に対して提供するということは非常によくある話です。
 聖人との約束として、贈与された牛は結果的に聖人像の口に入るわけではなく、来訪者や他村の楽団メンバーに食されます。その調理も村の人たちの手で行われ、食堂にきた人には誰でも食事を提供します。牛肉のスープに大判のトルティージャがここでは一般的で、招待客は心ゆくまで食べられますし、またお酒などの飲み物も勧めてもらえます。ここには入れ子状になった贈与の構造があり、各人が村に共同寄託したものが皆に消費されるという、贈与の爆発ともいうべき流れをみることができます。

資料16 提供された牛は屠殺され余すことなく食される(著者撮影 2019.01.30)

 また、祝祭の日々に、これをどこの村でもやっているということは、結局もちつもたれつの関係になっているということなのです。各村に聖人・聖母が一人ずつは必ずいることを想像してみてください。つまり、大げさに聞こえるかもしれませんが、北部山地全体を見回せば、毎週のようにどこかでお祭りがある、ということになるのです。あまり遠いところだと大変ですが、近場であれば近隣の村の人たちは必ず行きます。
 北部山地では、祝祭の中でそうやって贈与が循環しているのです。人類学者のグレーバーは祝祭を一時的自律圏(Temporary Autonomous Zone)と呼び、その中において人間が自由に(であるかのように)生きられる瞬間が創出されると言っています(2006: 133)。山の澄み切った空気の中、楽団の音楽をバックに、多くの人たちと瞬間を共有する。そこにある自由の感覚は、何ものにも代えがたいものです。

メスカル作りの現場に入る

 僕が北部山地で何度も通ってきた村であるサンティアゴ・ソチーラでは、メスカルの生産が有名です。リュウゼツラン(アガベ)を蒸留して作る蒸留酒は、オアハカのみならずメキシコの多くの州で作られており、言わずと知れたテキーラもメスカルの一種です。テキーラに比べ、石窯で蒸し焼きにしたアガベを使うメスカルは、近年その芳醇さとスモーキーな味わいが認められ、愛好家が増えています。また、以前から蒸留酒製造はスペインが入ってきてからのものだという通説が一般的に受け入れられていましたが、近年の研究ではそれが遺構などから先スペイン期にすでに行われていたことが明らかになっており(Serra, 2016)、近頃ではその文化的背景なども売りの一つとなっています。
 北部山地でお世話になっていた大学のフェルナンド先生がある日、その村に挨拶がてら向かうということで同行したのが僕のメスカル人生のスタートだったと言えます。それまで何度もメスカルを飲んだことはあったのですが、村の土地の滋味を蓄え、天然の資源だけで育ったアガベで作られるメスカルの味は格別です。当時村長だったカルロスに挨拶したら、まずは駆けつけ一杯(?)なのでしょうか、歓待の印にメスカルを一杯もらいました。そのうまいこと、形容しがたいもので、すっかり気分が良くなっていると、今ちょうどメスカルを作っているから見に行ってくればどうか、とオファーをもらったのです。
 パレンケ(注11)に着いてみると、15人ぐらいの男たちが談笑しながら働いていました。日本人がパレンケに来るという珍しい事態に加え、その日本人が酒好きときたので、みなとても歓迎してくれました。北部山地ではこういった力仕事を伴う作業には必ずビール、ジュース、そしてメスカルが供されており、みな少しほろ酔いになって冗談を言い合いながらも作業を続けます。

資料17 アガベ畑で談笑するエクトルとレイナルド(著者撮影 2019.06.14)

 相変わらず、なんでもやってみるタイプの僕は、まずアウエウエテを木槌でつぶすという作業に参加しました。そんなこんなで、2日目は、荷運びやマチェテを使っての蒸したアガベ割りに参加し、一日中パレンケに滞在しました。多くの作業の中でも特にきつかったのは4日目にやったアガベの刈り取り・運搬作業でした。
 朝早くにトラックの荷台に立ち乗りで皆と栽培地まで向かいます。傾斜がほとんどの北部山地は、耕地が車道から遠いことも多く、その距離に比例してアガベの運搬作業も過酷さを増します。エスパディンと呼ばれるアガベは一つで100kg以上あるものが多く、2等分か3等分にしても40-60kg近いものをメカパルという頭部と首に負荷を分散する道具を使って担ぐのです。これが、噛み締めた歯の間から血が滲みそうなほど、とても重いんです。
 そして、車道までの距離が遠い。とても大変な思いをして北部山地ではメスカルを作っているということが身にしみてよく分かりました。それだけに、もっとこの努力が評価されて、そして生産者に利潤がしっかりと回るような形で、各企業や個人には責任のある買い取り方をしてほしいものだと思います。

資料18 60-70kg近い大型のアガベを担ぐオマール(著者撮影 2019.06.14)

 気がついたら5日も滞在させてもらっていたのですが、さすがに衣類も底を尽いたので、村祭りに戻ってくることを約束して、その時は一旦拠点としていたイクストランに帰りました。後ほどわかってきたことなのですが、この作業に参加していた人たちのほとんどはカルゴとしての仕事(つまり無償)をこなしていたということだったのです。北部山地でカルゴとしてメスカルを作っている村はとても稀なケースだと思います。売り上げは全て村の資金となり、村祭りや住民のローン、メスカル関連のインフラ整備などに充てられます。
 時は経ち、昨年の四月にこの村の仲間たちと共にメスカルのブランドを立ち上げました。立ち上げたといっても、もともと長きに渡り生産されて来たものに改良を加え瓶詰めし、販売しやすいようにした、というだけのことです。コロナ禍で巣篭もり需要が増えたことを受けて、メスカルブームも加速傾向にあることから、生産者からは安く買って、消費者には高く売るという仲買販売が増加して来ました。ソチーラの各生産者にもオファーが来始めましたが、そのどれもがあまりに格安でもはや慇懃無礼だとすら僕は感じています。そこで、急遽我々自身でブランドを立ち上げてメキシコシティで積極的に販売していきましょうという話になりました。
 そうすることで売り上げ利益のほとんどがコミュニティでのアガベ再生産に還元される、まさに連帯経済としての販売網の成立に着手しています(注12)。

変化の中のコムナリダ

 2年ほど前、日本のある大学紀要に、上記で触れたような内容をさらに詳細に記した記事を投稿したところ、不採用になりました。その査読者の評の中で、内容が随分昔の先住民のものなのではないかと指摘をもらっていたことを覚えています。それぐらい、なかなか信じられないような贈与的関係が、スマホも普及した北部山地の中で未だに息づいています。コムナリダの提唱者たちも、この村々での生活の特殊性をなんとか言語化したいという思いがあったのだと思います。
 もちろん世界は変遷の中にあり、北部山地先住民の生活も近代化され日々変化がある状況は否めません。まず、サポテコ語の話者が目に見えて減ってきています。今50代ぐらいの流暢な話者たちが亡くなる頃には、各村が大半の話者を喪失してしまうことになるでしょう。ここ20年ぐらいでサポテコ語教育に注力しなければ手遅れになってしまうと思います。それだけ都市部からくる同化の流れにはなかなか抗しがたいものがあるのだということです。 
 移民もまた大きな問題です。若年人口の喪失は、カルゴを担っていける次世代の人材の不足を引き起こし、村の運営の大きな足かせともなっています。リーダーとしての資質を持たないものも重要職に選ばれるようになっており、新たなイニシアティブが全く立ち上がらない年もあります。この機運の上下は自治コミュニティにはつきものなのですが、一年で役職が交代するという汚職にブレーキをかける制度が存在する功罪とも言えるかもしれません。
 また、役場にも政府のプロジェクトなどで大量の資金が流入するようになっています。インフラ整備などがその主な目的なのですが、経理情報開示制度がコミュニティ内部ではまだまだ甘く、その時の出納係が村の財源から盗みを働いたりするような事態が頻発しています。しかし、村の人たちも横領があったことをわかっていながら、議会で断罪するということができる村はまだまだ少ない状況です。情報開示を徹底することで資金の流れを透明化することが優先課題です。
 特にこの問題は、エンジニアと呼ばれる、インフラ整備を大学で専攻してきた外部の人間が、役場の人間に取り入って、仕事を優先的に受注し、結果的に出納係や村長と結託して利益を中抜きするというカラクリがあります。ロペス政権下での今までにない規模感で資金流入が起こっているにもかかわらず、政府側の情報開示義務の甘さが、次々とこのような事態を招いているのです。
 しかし、コムナリダ提唱者のハイメ・マルティネス(2013)は言います。北部山地は外部からの文化的侵入に絶えず悩まされてきましたが、「強制-反抗-最適化」という弁証法的方法で、外部の異なるものを取り込んで自分たちのものにしていく能力を持っているというのです。ですから、言語が喋れなくなっても、伝統衣装を着なくなっても、儀礼の慣習を失っても、村に対しての奉仕の心は忘れない。つまりは村に負う気持ちを忘れず、ゆえに移民になっても役場に対して送金し、祭りに寄付し、カルゴが当たれば帰って来ることもある、というわけです(Maldonado, 2003: 15)。
 実際にコロナ禍で、若者たちが村に戻り、農業や牧畜業を再開したりしています。今まで休耕地となっていた場所に一気にトウモロコシが植えられ、食料自給率が目に見えて上がったという側面もあります。オアハカの自治はこの柔軟性を持ち合わせており、喪失されていたかのように思われたものが集団的記憶の中から再帰する可能性を有しています。若者たちを見ていると楽観視もできませんが、悲観することもないという感じで、北部山地の自浄作用には期待が持てます。
 当該地域に滞在していた1年、お世話になった先述のフェルナンド先生は言っていました。「我々にはコムナリダがあるんだ。だからいつも贈与を動かす物語・倫理は再生する。でも都市の人間は、どうするね。」、と。コムナリダは集団的に、制度的に贈与関係を再生産できるようなシステムを持ち合わせています。この物語というのは、贈与倫理につながる思考及び経験のことを指します。では、都市部の分断された僕らをつなぐことができる倫理とはどういうものなのでしょうか。ここに来て、もとは経済的な興味から始まったはずの研究が、徐々に哲学的なアプローチの必要性へと変遷してきたことがご理解いただけると思います。これこそが、モースの言った全体的社会的事実・全体的給付の意味なのだろうと改めて考えさせられます。
 最後にソチーラのメスカル生産者であるホセの言葉を引用して、その一例を示したいと思います。以下は、ホセがマンゴーの木を(誰が食べるかもわからないのに)どこにでも植えるといって奥さんに怒られていた時に、彼が用意してきた反論です。

「・・・人生の長きにわたり、僕は他の人が植えた木のマンゴーを食べてきた。自分の植えたものが他の人に行き渡ればこの上ないことだ。いつも僕らは誰かに与えられる何かを持つべきなんだ。木々は川を、大地を、太陽を、月を、星をもたらす。ならば、僕らのその卑しい気持ちから自分だけが果物を集めてしまいこんで、自分は何も他の人にあげたくないという気持ちはどこからくるのだろうか。どれだけ貧しかろうと、何かあげるものはある。他者にとって気持ちのいい思考、言葉、とびっきりの笑顔、感動、歌、手助け、等々傷ついた心を癒す方法はいろいろあるじゃないか。」

ホセ・エルナンデスとの会話(インタビュー日2020.02.29)

 北部山地にはこういった個人的な話や、昔話、経験談が山ほどあります。それらが繰り返し再生産される以上、時代が変遷しても贈与的関係(つまりコムナリダ)は容易に消えることはないでしょう。


第二章 オアハカ篇脚注
1. 中央アメリカを指す言葉だが、先スペイン期の他地域からの干渉がなかったという意味では一つの文明ブロックとして捉えることができる(Pipitone, 2006)。
2. ソゴーチョ周辺地域は7つの行政地区(municipio)であるSan Bartolomé Zoogocho、Santiago Zoochila、San Andrés Solaga、Santa María Yalina、San Juan Tabaá、Santiago Laxopa、Yatzachi El Bajo、及びそれに付随する8つの村(agencia)Santa María Tavehua、Santo Domingo Yojovi、San Jerónimo Zoochina、Yatzachi El Alto、Santa María Yohueche、Santa María Xochistepec、Santa Catarina Yahuío、San Sebastián Guiloxiにて構成されている。メキシコ国土地理院のデータによれば、2010年時点で人口5093人。
3. カルゴシステムは元来スペインによって導入されたものだが、その内容や意味は時代とともに変容し、贈与を循環させる人間を作り出すシステムとなっている。本文を通じて触れている社会では、教育というものが、家庭や学校というものだけで完結するわけではなく、共同作業や役場での仕事を通じて獲得されて行く。翻って現行の教育体制では、資本主義社会を維持する道具として我々が常に再生産される。
4. この互酬の3形態とは、一般的互酬性、均衡的互酬性、否定的互酬性の三種類である(サーリンズ 2012)。
5. 今日ゲラゲッツァは、毎年オアハカで7月に行われる民族舞踊の祭典として有名となっているが、本来の語の意味は北部山地のゴソーナと同じ相互扶助としてのものである。民族舞踊にはその名残として、踊りの後に観客に出身地方の名産品やお菓子などを投げるパートがある。
6. この点から、山田広昭氏(2020)は共同体の贈与関係が、祖霊とまだ見ぬ子孫をも含んでいることを指摘している。
7. 原則無償が基本なのだが、貨幣経済の浸透により、近年では全く無償でということが難しくなってきたこともあり、村によっては年末の役職終了時にまとまったお金が渡されるケースも増えていている
8. ハラべとは北部山地のお祭りに欠かせない地域独特の楽曲であり、金管楽器と太鼓をメインにした各村の楽団が祭りの様々な機会に演奏を披露する。写真の通り、村人や訪問者たちは二人一組になって踊るのだが、一曲が15-20分近いことが普通で、終わる頃には皆汗だくになる。
9. 竜舌蘭から作られる蒸留酒。詳しくは事項参照のこと。
10. フランス由来と言われるこの金管楽器楽団を各村が有しており、カルゴの一環としてメンバーは日々練習に励んでいる。北部山地ではゴソーナとして村同士で楽団を祭礼のために貸し出しできるようになっているが、近年ではお金を払って参加をお願いすることも多い。楽団は村の各種イベントにとって欠かせない存在で、多くの楽曲は北部山地オリジナルの作曲であり、優秀な音楽家たちを大量に輩出している。レパートリーも多く、楽譜もなしで何曲も演奏を続ける姿は圧巻。
11. メスカルの製造所のこと。基本的に石窯、タオナ、発酵のための樽、蒸留器具が揃っている場所を指すが、一部もっと伝統的な製造方法を踏襲していたり、あるいは機械化していたりもする。
12. 興味がある方は以下インスタグラムのページをご覧いただきたい。日本での販売にはまだまだ至らないが、いずれは考えたいと思っている。
https://instagram.com/mezcal.lhashdauyesh?utm_medium=copy_link


結語:先住民の実践が僕らに語りかけるもの


 修士の最初の頃は、経済学な観点からスタートした僕の研究ですが、結果的に年月とともに人類学的フォーカスを好むようになってきました。全てから一旦距離を置いてみてみるという作業ができるのは、人類学が西洋近代の理路に順じない社会の経験を蓄積してきたことや、あるいは実際にフィールドに出ることでそれらの経験を追体験できるからでしょう。しかし、この思考や経験をもってして、相対主義に陥ってはいけません。相対主義をただ突き詰めていくと、結局なんでもありの構造主義の落とし穴、あるいはポストモダンの罠に再び陥ってしまいます。つまり人類学は「文化相対主義」や「野生の思考」というカオスに陥ることなく、深淵のきわを歩きながら言葉を紡いでいく必要があるということなのです。
 さて、前述の2章を通じて、チアパスやオアハカの先住民が僕らに投げかけるものは何なのか。少なくとも3つのものが見えてきた気がします。まず1つ目は贈与と時間というテーマです。僕らの現在の時間感覚の基礎を作っている近代的思考は、僕たちに目的論的な時間軸を生きることを生まれた時から教え込みます。日々時計を見て、カレンダーを見て、僕らは死を終着点として時間というものが直線的に進んで行くように感じるようになるのです。この近代の直線的な前進原理に基づき、交換を加速させることは資本主義の至上命題となってきました。しかし、ご覧になられたように、贈与は遅いのです。それどころか、返礼がされないこともある。つまり贈与はその存在が加速を許さない、資本主義にとっては存在的不合理なのです。 
 さらに、この時間というテーマにおいては、チアパスとオアハカ先住民の生活哲学を通じて瞬間という時間軸における「点」を見つめ直す必要性を示してきました。本文で何度か引用した古東氏は、この瞬間とアートの関係性を指摘しています。氏はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』引いてきて、「見失われてしまった時」を回復する時に忽然と現れる「真の生」(注1)という感覚に触れます。すなわち、芸術とは、過ぎゆく日常の中で無意識的に捉えられて来た瞬間のネガフィルムを「現像」し、再び僕たちの前に現出させていく作業なのだと言うのです(古東 2011:106-118)。アーティストにとっても、見る人間にとっても、前進的な時間感覚を麻痺させて、瞬間への没入を可能にする、そんなアートの持つ力は先住民の生活哲学とも密接につながっているのです。
 ここで、このツォツィル人やツェルタル人のレキル・クシュレハル、あるいはサポテコ人やミヘ人のコムナリダの中に存在する瞬間の哲学は同時多発的に生起する点として、縦軸を構成すると想像してみましょう。そして、この多数の人間の瞬間としての時間軸に注目しながら、横軸の近代の直線的時間を見つめ直すことで、ナナメの時間軸を生成することができる、と考えることはできないでしょうか。つまり、それは継続的に「ずれる」ということであり、この「ナナメの時間」を生きるということが一つの倫理的挑戦なのだと僕は考えています。
 さて、贈与をめぐるキーワード「倫理」という言葉が再度出て来ました。2点目です。贈与の力動は背景にある倫理や物語に依拠するという話が本文で示唆されて来ました。これに関係して、哲学者の今村仁司氏(2016)は、ホモ・コムニカンス(交易する人間)という人間像を僕らに提示しています。今村氏は近代が立ち上げてきた経済人間像ホモ・エコノミクスに異議申し立てをし(注2)、様々な相互行為を常に行なっている人間として、ホモ・コムニカンスという本来的な社会的人間像を提示することで、社会内存在として人間を再定義しようとします。
 また、人類学経済学の祖として参照されるカール・ポランニー(1998)は、人間の歴史上の経済形態が互酬・再分配・等価交換の原理で形成されていると言います。経済学という比較的新しい学問が成立して来たことと同時に、これら3つの形態が複雑に絡まりあう状態から、等価交換(すなわち資本市場)だけが切り離されて考えられるようになってきました。このポランニーの研究を評価するアラン・カイエたちは、切り離されてしまった経済の、社会性への再度の「埋め込み」の必要性を語ります。これらの指摘を踏まえると、ホモ・コムニカンスとして人間を捉え直すことは、人間の功利性本質主義を打破し、互酬・再分配・等価交換を並列で見ることができる、新たな僕たちの「経済」視座の形成することで、功利的人間観という近代の「常識」を崩していく作業なのだと言えるでしょう。 
 この点は、先述の「ナナメの時間」ともつながりそうです。ホモ・コムニカンスとしての時間感覚は、瞬間に生起する、ニヒリズムとは一線を画したもので(注3)、没頭・没入の時間への意識を忘れることなく、目的論的直線から常に逸脱していく感覚なのではないでしょうか。しかし、ここで注意するべきは、このホモ・コムニカンスの贈与倫理がサルトルの実存主義的な主体構築の「焼き直し」(岩野 2019: 285)のようなものにならないようにすることです。
 なぜなら、贈与にはアポリアがあるからです(湯浅 2020)。その困難とは「贈与が認識されてしまうとそれは贈与ではない」という、贈与の存在不可能性です。贈与の難しさは、瞬間の生起と同じく、意識的にコントロールするものではないことにあります。つまり、贈与倫理に基づき行動する主体を人工的に作り出すような作業を行なっていくことは、贈与の強制を強いる、不自由な贈与形態を作り出してしまうと思います。贈与は自由で(あるいは自由だと思われて)なくてはならないのです。
 ゆえに、これからの贈与倫理の話をするにあたっては、バッファを念頭に置いておかなければならないと考えます。美学者の伊藤亜紗氏は利他(贈与的関係)を「うつわ」に例えて、このうつわの「余白」の必要性を主張しています(伊藤 2021)。また、政治学者の中島岳志氏は、利他を「不確かな未来に規定されるもの」として捉えます(中島 2021)。余白や不確かさというものが、贈与の自由性の根源なのだとしたら、その背景にある倫理とはどんなものでなければならないのでしょうか。
 僕はこの点に関して、義務としての「〜でなくてはならない」という押し付けではなく、人間の歴史的失敗を踏まえた上での、最低限の「〜であってはならない」という点においてだけコンセンサス(共通の物語)を見つけて行く必要性があるのではないか、と思います。つまり贈与ならなんでもありという訳ではないということです。ボトムラインとして、例えば殺し合いの連鎖としての贈与(死を与える)であってはならないだろうし、公正さが求められる場所での賄賂のような贈与であってはならないでしょう。しかし、この線引きの入ってこない部分には、個々の自由に任せておく「余白」をきっちり確保することが必要なのです。もちろん、ここに書いていることはまだ荒削りで、贈与を司る倫理についてはこれからも深めていく必要がありますが、この余白をどう定めていくかということがとても重要な課題だと感じます。
 さらに、贈与と互酬は贈与対象者の主観を認める働きがあります。例えばオアハカの村祭りにおける、聖人・聖母への贈与を例にとってみましょう。聖人・聖母の贈与の能力を認めているからこそ、人々は聖なるものに対して贈与ができます。チアパスで死者や大地の神に祈りを捧げるのも、祖霊や神々の主観を認めているからこそ、このような互酬性が可能になるわけです。近代になって人間は自然に対して贈与することをやめてしまいました。しかし、環境危機が深刻化するいま、自然との共生の智慧を贈与という観点から再評価する必要がありそうです。
 そして、3点目は自治の話です。先住民の実践を見ていると自治というものの意味が見えてくると思います。つまり自治には2つの段階があり、1つ目は村議会(寄り合い)を通じての領域(テリトリー)内の各コミュニティ運営という、普段僕らが意識するところの「政治」として自治です。自治と贈与というものがつながっているのは、贈与というものが国家と距離をとるべき実践であるからです。日本もナショナリズムという物語のもとで多くの若者たちの命の「贈与」を強制した歴史があります。国家=ネーションの、物語としての国民意識は有事に生命の自己犠牲(贈与)を強要する傾向があるのです。そんなことを繰り返してはなりません。
 自治のもう一つの次元は個人と集団の選択的自由に依拠し、簡潔な言葉で言い替えれば、「今日何をするか」という、生産や就業選択を巡る自立・自由、つまり「自律」という点です。都市生活にある僕らは「自治」も「自律」もあまりに乏しいのではないでしょうか。今回紹介したケースでは、村の農業という生産手段が自分たちの手にあることで、剰余を作り出し、共同寄託のような形でシェアして消費することを可能にしています。だからといって、みんなで田舎に住んで生産手段を確保し、コモンズを再構築しようというのは暴論でしょう。やはりシステムは内部からその意味をすこしずつ変革していくことで、長年を経て全く違うものに変質させていくことが必要だと思います。そこにおいて力動するのは贈与的・互酬的な関係でしょう。ゆえに柄谷氏の「贈与の高次元の回帰」なのです。
 であれば、僕たちの課題は、この自治・自律的な空間を日常でどれほど広げていくことができるか、ということにあります。これは先ほどの倫理の話とつながって、実に思想的なテーマです。社会学者のジョン・ホロウェイ(注4)の著書『革命—資本主義に亀裂を入れる』(2011)では、資本主義システムの課す日常のルーティンから逸脱する(例えば今日一日仕事に行かず子供と遊ぶ)ことで、システムには亀裂が入ると言います。これは、とても小さな例かもしれませんが、日常にそういった空間を作り出していくことが、功利主義のみに陥らず、分断された社会に「つながり」を取り戻していく筋道の一つなのです。
 この点に関しては、思想に違いはあっても、結構多くの人が同じ地点を見ていたりするものです。例えば、作家の佐藤優氏がマルクスの資本論の研究本で、直接的人間関係において商品経済とは違う領域(つまりは贈与)を作る必要性を説いています(佐藤 2014: 242)。氏にとってその領域とは、飲食の奢りあいであったりとか、書籍の贈り合いであったりします。人類学者の松村氏(2021)は、こういった関係づくりを「耕す」と表現しています。そしてこの国家などの枠組みが及ばない自己決定の領域を耕しておくことは、つまり一時的自律空間の確保なのであり、明らかにアナーキズムの経験とつながっていきます。  
 僕たちの手に、喪失された自律性を取り戻していくこと。その時に贈与というコンセプトは参照不可欠です。国家のカウンターパートとしての小さな共同体の再生。このように小さなスケールで僕らの日常に落とし込んで、贈与を考える時、日々の中で行なっていけることは無数にあるのではないでしょうか。だからこそ、メキシコ先住民の日々の実践は、僕らがどのように自立共生(コンヴィヴィアリティ)社会を構築していけるのか、その示唆に富んでいるのです。


結語脚注
1. 「ある瞬間、啓示でもうけたかのように、リアルな真の生の再発見が起きる」(2011: 106)というくだりは、レキル・クシュレハルの生感覚に酷似しているように思われる。
2. この功利主義的世界観の批判として贈与を対抗軸に据えているのはアラン・カイエ(2011)をはじめとするMAUSS(反功利主義)というグループである。
3. 今を代表するニヒリズムはYOLO(You Only Live Onceの略)だろう。瞬間を生きることを大切にすることと、消費社会の肯定と未来への無責任の表明でしかないYOLOはまるで違うものだということは理解しておきたい。
4. メキシコ在住の研究者で、EZLNとも関係が深い。


参考文献

スペイン語書籍・論文資料

Acosta, Alberto. (2010). El Buen Vivir en el camino del post-desarrollo Una lectura desde la Constitución de Montecristi. Policy Paper 9, Quito: Fundación Friedrich Ebert, FES-ILDIS.

Ávila Rojas, Odín. (2020). Indianismo vs. Vivir Bien: la disputa vigente del indio en Bolivia. Popayán: Editorial UC.  

Aubry, Andrés. (2005). Chiapas a contrapelo. Una agenda de trabajo para su historia en perspectiva sistémica, México: Editorial Contrahistoria – Centro Immanuel Wallerstein.

Barabas, Alicia Mabel. (2017). Dones, dueños y Santos: ensayos sobre religiones en Oaxaca. México: INAH-Miguel Ángel Porrúa.

COPLADE. (2017). Diagnóstico regional de Sierra Norte. Gobierno de estado de Oaxaca. Disponible en: https://www.oaxaca.gob.mx/coplade/wp-content/uploads/sites/29/2017/04/DR-Sierra-Norte-03-abril17-1.pdf

Derrida, Jacques. (1991). Donner le temps. 1. La fausse monnaie, Paris : Galilée.

De Souza Santos, Boaventura. (2009). Una epistemología del Sur: La reinvención del conocimiento y la emancipación social. México: Siglo XXI editores.

Díaz Gómez, Floriberto. (2007). Escrito. Comunalidad, energía viva del pensamiento mixe. México: UNAM.

Escobar, Arturo. (2007). La invención del Tercer Mundo: construcción y deconstrucción del desarrollo. Caracas: Fundación Editorial el perro y la rana.

Esteva, Gustavo. (2009). Más allá del desarrollo: la buena vida. En: La Revista América Latina en Movimiento, No. 445, Junio.

Gudynas, Eduardo. (2012). Sentidos, opciones y ámbitos de las transiciones al postextractivismo. En: Más Allá del Desarrollo. Quito: Ediciones Abya Yala.

Huanacuni, Fernando. (2010). Buen Vivir/Vivir Bien. Filosofía, políticas, estrategias y experiencias regionales andinas. Lima: CAOI.

Lévi-Strauss, Claude. (1979). Introducción a la obra de Marcel Mauss. En : Mauss, Marcel. Sociología y antropología. Madrid: Editorial Tecnos.

Maldonado Alvarado, Benjamín.
(2003). La comunalidad como una perspectiva antropológica india. En: Rendón Monzón, Juan José. La comunalidad: modo de vida en los pueblos indios. Tomo I. Consejo Nacional para La Cultura y Las Artes. México. pp.13-26.
(2013). Comunalidad y responsabilidad autogestiva. En: Cuadernos del Sur. Año 18, No. 34, Enero- Junio. Oaxaca, México.

Marañón Pimentel, Boris. (coord.) (2013). La economía solidaria en México. México: UNAM- IIEc.

Martínez Luna, Jaime. (2013). Textos sobre el camino andado. Tomo I, Oaxaca: Coalición de Maestros y Promotores Indígenas de Oaxaca A. C. (CMPIO)/Centro de Apoyo al Movimiento Popular Oaxaqueño, A. C. (CAMPO)/Coordinación Estatal de Escuelas de Educación Secundaria Comunitaria Indígena (CEEESCI)/Colegio Superior para la Educación Integral Intercultural de Oaxaca (CSEIIO).

Muñoz Goetsch, Beatriz. (2012). La sombra del mundo : escenarios zapotecos de teatralidad social e interacción ritual. Tesis doctoral. Universidad Complutense de Madrid.

Núñez Rodríguez, Violeta, Gómez Bonilla, Adriana, y Concheiro Bórquez, Luciano. (2013). La tierra en Chiapas en el marco de los "20 años de la rebelión zapatista": La historia, la transformación, la permanencia. En: Argumentos (México, D.F.), 26(73), pp.37-54.

Paoli, Antonio. (2003). Educación, autonomía y Lekil Kuxlejal: aproximaciones sociolingüísticas a la sabiduría de los tseltales. México: UAM Xochimilco.


Pineda, Francisco. (1996). La guerra de baja intensidad. En: Revista Chiapas, Núm. 2. Editorial Era-IIEc. México.

Pipitone, Ugo. (2006). Oaxaca prehispánica. En: Documentos del Trabajo. CIDE.

Ramos Gil, Irene. (2017). Gozona y fandango: fuentes de legitimidad de la alianza matrimonial en Yalálag, En: Península vol. XII, núm. 2 julio-diciembre de 2017, pp. 143-168.

Sánchez Álvarez, Miguel. (2012). Introducción a las bases conceptuales del lekil kuxlejal o buen vivir. En: Sartorello, Ávila. (coord.) El Buen Vivir: Miradas desde adentro de Chiapas. San Cristóbal de Las Casas: UNICH-IESALC-UNESCO.

Serra Puche, Mari Carmen. (2016). El mezcal: una bebida prehispánica. Estudios Arqueológicos. México: UNAM-Instituto de Investigaciones Antropológicas.

Schlittler Álvarez, Jaime. (2012). ¿Lekil Kuxlejal como horizonte de lucha? Una reflexión colectiva sobre la autonomía en Chiapas. Tesis de maestría. CIESAS.

Temple, Dominique.
(1997). “El Quid – pro quo histórico, en El malentendido recíproco entre dos civilizaciones antagónicas”. La Paz: Aruwiyiri.

(2003). Las estructuras elementales de la reciprocidad, La Paz: TARI-Editorial Plural-UMSA.

Unceta Satrustegui, Koldo. (2013). 
Decrecimiento y Buen Vivir ¿Paradigmas convergentes? Debates sobre el postdesarrollo en Europa y América Latina
. En: Revista de Economía Mundial, núm. 35, pp. 197-216.

Villafuerte Solís, Daniel, et al. (1999). La tierra en Chiapas. Viejos problemas nuevos. México: Plaza y Valdés.


Yampara Huarachi, Simón. (2001). La institucionalidad del ayllu: los territorios andinos continuos y discontinuos. En: Pacha. Ediciones Qamañpacha, CADA. pp.15-44.

日本語書籍

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』、株式会社ゲンロン、2017年
伊藤亜紗編『利他とは何か』、集英社新書、2021年
伊藤直哉『桃源郷とユートピア 陶淵明の文学』、春風社、2010年
今村仁司『交易する人間(ホモ・コムニカンス) 贈与と交換の人間学』、講談社学術文庫、2016年
岩野卓司『贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学』、青土社、2019年
小田実『なんでも見てやろう』、講談社文庫、1979年
カイエ、アラン『功利的理性批判』、藤岡俊博訳、以文社、2011年
柄谷行人『世界史の構造』、岩波書店、2010年
グレーバー、デヴィッド
『アナーキスト人類学のための断章』、高祖岩三郎訳、以文社、2006年
『負債論』、酒井隆史他訳、以文社、2016年
『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』、酒井隆史他訳、岩波書店、2020年
古東哲明『瞬間を生きる哲学 〈今ここに〉佇む技法』、筑摩選書、2011年サーリンズ、マーシャル『石器時代の経済学』、山内昶訳、法政大学出版局、2012年
齋藤幸平『人新世の資本論』、集英社新書、2020年
佐藤優『いま生きる「資本論」』、新潮社、2014年
ソルニット、レベッカ『災害ユートピア:なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』、高月園子訳、亜紀書房、2010年
近内悠太『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』、ニューズピックス、2020年
中沢新一『対称性人類学 カイエ・ソバージュV』、講談社選書メチエ、2004年
中島岳志『思いがけず利他』、ミシマ社、2021年
ネグリ、アントニオ / ハート、マイケル『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』、水嶋一憲他訳、以文社、2003年 
バタイユ、ジョルジュ『呪われた部分』、酒井健訳、ちくま学芸文庫、2018年
廣田裕之『社会的連帯経済入門』、集広舎、2016年
ポランニー、カール『人間の経済I 市場社会の虚構性』、玉野井芳郎・栗本慎一郎訳、岩波現代選書、1998年
ホロウェイ、ジョン『革命-資本主義に亀裂をいれる-』、高祖岩三郎・篠原雅武訳、河出書房新社、2011年
松村圭一郎『くらしのアナキズム』、ミシマ社、2021年
マリノフスキ、ブロニスワフ『西太平洋の遠洋航海者』、増田義郎訳、講談社学術文庫、2010年
見田宗介『社会学入門:人間と社会の未来』、岩波新書、2006年
モース、マルセル『贈与論 他二篇』、森山工訳、岩波文庫、2014年
森元斎『もう革命しかないもんね』、晶文社、2021年
ラトゥーシュ、セルジュ
『経済成長なき社会発展は可能か?――〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学』、中野佳裕訳、作品社、2010年
『〈脱成長〉は、世界を変えられるか――贈与・幸福・自律の新たな社会へ』、中野佳裕訳、作品社、2013年
『脱成長』、中野佳裕訳、白水社、2020年
山田広昭『可能なるアナキズム-マルセル・モースと贈与のモラル』、インスクリプト、2020年
湯浅博雄 『贈与の系譜学』、講談社、2020年


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?