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〜誕生〜引っ込み思案で悶々鬱々と過ごした子供時代

1971年、島根県出雲市にて生まれました。

父、母、弟、祖父、祖母、祖祖母の7人家族の兼業農家。
母が嫁いだ当時は、そのほかに、祖祖父、父の弟妹、叔母、叔母の子供など・・・10人以上で住んでいたそうで、賑やかで、嫁姑問題のようなストレスは
一切感じなかったそうです。わたしが赤ちゃんの頃は、母はまだ会社勤めをしていたので、日中は祖祖父が面倒を見てくれていたようです。

父はサラリーマン、母も弟が生まれるまでは父と同じ会社で働いていました。
祖父母らは、毎日、農業をして過ごしてました。米作り、畑、茶畑、牛を飼い、
かいこを飼い、トイレは外にある汲み取り式のトイレで、祖父が畑の肥やしにしていました。小さい頃の思い出と言えば、いつも、祖父母と一緒に裏山の畑に行って、山の中を空想を膨らませながら散策していたことが思い出されます。

わたしには一つ違いの弟がいますが、隣り近所や近くにいる同世代の子供は、男兄弟ばかりのだったので、幼稚園に上がるまでは、男の子とばかり遊んでいました。幼稚園で4人姉妹のお友達と仲良くなってからは、女の子の世界が楽しくて、毎日のように遊びに行きました。

小さい頃は、恥ずかしがり屋で、引っ込み思案。人の目が気になって、自分の意見や思っていることを表現することが苦手でした。「自由に」と言われると、どうしたらいいか分からず一番困りました。

その後、幼稚園と隣接していた小学校に入学。山の麓にある1学年1クラスの小さな学校「朝山小学校」で、わたしのクラスは男女合わせて29人でした。

小学校低学年の頃、男の子と喧嘩ごっこすると(どうして、そんなことをしていたのかわからないのですが、女の子と男の子が向かい合って、喧嘩ごっこ?みたいなことをしていた記憶があります)、男の子を泣かしてしまうことが何度かあったので、その頃より、男の子には優しくしなきゃと思ってました。でも、表現下手で「ごめんね」とは言えなかったのですが。。。

色々感じていのことはあるのに、外に表現することが下手だったので、表情も乏しかったのだと思います。高学年の時に、同級生の女の子に「美保ちゃんはポーカーフェイスだから」と言われてショックを受けてました。

そして、自宅では、嫁である母は、祖父母とのお喋りに夢中で、わたしが話をしたい時に話せないことに寂しさを感じてました。その思いをその場でちゃんと母に伝えられていたら、すぐに問題解決したのだと思いますが、話せない不満を募らせたまま、ある時、「もう、うちでは話さない!」って拗ねてしまったことを覚えています。その頃から、自分を閉ざし、空想の世界に浸るようになりました。でも現実は満たされていないので、不機嫌や不満はつのります。両親にはいつも不機嫌な態度を取っていた気がします。(大人になってから両親にそのことを聞いてみたら、そんな記憶はなかったようです。立場が違うと考えることも印象も違いますね。)

表面上はいい子で、外ではいい子でしたが、内心は満たしきれない不満やイライラ、不機嫌さで、悶々としていた子供時代でした。

つづく。







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