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日本の植民地統治の実相とは何だったのか?~加藤圭木『紙に描いた「日の丸」:足下から見る朝鮮支配』(岩波書店)

2021年11月25日刊

昨年11月に出た研究書。著者は一橋大学大学院社会学研究科准教授で専門分野は朝鮮近現代史・日朝関係史。加藤氏のことは今年に入って初めて知ったが、これも非常に学ぶところの多かった論考。この著作の大きな特徴は、日本が北朝鮮と未だ国交がない中、主に朝鮮半島北部における日本の植民地支配期の「統治の実相」を、いくつかの拠点を定点調査することで描き出したことである。日本の歴史研究者は、韓国の研究者とはそれなりの交流が可能だが北朝鮮とはそうもいかない中での貴重な研究成果。この作品の章立てに従って、その要点を簡潔にまとめておこう。

<第一章:奪われた土地ー日露戦争と朝鮮ー>
ここでは、日本の朝鮮半島支配が決して1910年の「日韓併合」から始まったのではなく、日清・日露戦争時から日本が朝鮮半島での利権獲得を目的として武力による支配を目指していたことが明らかにされる。突然やってきた日本軍によって占領される元山(ウォンサン)に面した永興(ヨンフン)湾。1904年に半強制的に締結された「日韓議定書」に基づき、次々に日本軍に「土地収用」されていく多くの主要沿岸及び島嶼地域、軍用鉄道用地、ソウル・平壌・義州地域の兵営敷地、鎮海湾・永興湾の軍港化のための軍用地~それに対する広範な反対運動。日本人「事業家」の進出と、1908年の日本の国策会社「東洋拓殖株式会社」設立と土地収奪の本格化。

<第二章:紙に描いた「日の丸」ー天皇制と朝鮮社会ー>
昭和天皇「即位の礼」(1928年11月)に際しての、朝鮮半島民衆各戸への「日本国旗(日の丸)掲揚」強制と、紙や布に書いた日の丸を掲げながらも、それを破ったりの抵抗行動。天皇への忠誠の強制と批判意識の醸成。
また、1919年3月1日からの「3・1独立運動」の各階層での全国的拡がりと、それへの苛烈な弾圧。それまでの「武断統治」から、「文化統治」(一種の懐柔政策)への路線変換。

<第三章:水俣から朝鮮へー植民地下の反公害闘争ー>
この論考の白眉の箇所はおそらくこの章だろう。植民地期にチッソ(日本窒素財閥)によって設立された朝鮮窒素肥料株式会社~その工場が設置された地域の「海の死」~戦後、日本の熊本県水俣でチッソが垂れ流した水銀被害(ミナマタ病)は、実は植民地朝鮮において「先駆的に」発生していた事実。チッソだけでなく、日本国内(内地)では一定の公害規制があった中、植民地朝鮮(外地)ではそのような規制が緩く、セメント工場などでも粉塵噴煙公害垂れ流し状態だった事実。その根底にあるのは、法的差別だけでなく植民地なら何をしてもかまわないという民族差別意識。そしてチッソは数々の発電事業にも進出していく。その中で最大のものが水豊(スプン)ダム建設~当時東洋最大級の巨大ダムで、その建設に動員された多くの朝鮮人労働者たち。住民たちも様々に抗議行動を起こすが、結局は朝鮮総督府を中心とした官憲に鎮圧されていく。
そして、ここで描かれるチッソなど企業城下町での「遊郭・料理屋」経営の繁栄。元来、日本の植民地支配以前は公認の性売買としての「公娼制度」などなかった朝鮮に「遊郭」を持ち込んだのが日本という事実。そしてそれは、やがて帝国陸軍による「従軍慰安婦制度」にも繋がっていく。

<第四章:忘れられた労働動員ー棄民政策と荒廃する農村ー>
北朝鮮北東部の羅津(ラジン)への南部農民の大量移住~それは日本の「土地調査事業」など植民地政策で土地や耕作権を奪われ貧困化・棄民化した農民たちが、「羅津に行けば、労賃は安いが死ぬよりはいい」と移住していったもの。日本の「朝鮮半島南部は農業振興により本土の『兵站基地化』(米の配給基地)を図り、北部は工業化によって工業製品を量産する」という植民地支配政策に則ったもの。ここでの朝鮮総督府の「移動紹介事業」での「官斡旋」と、その後の戦争激化状況での日本国内(内地)への「募集」「官斡旋」「徴用」との繋がり。実態とは違う「甘言」による詐欺的労働動員と苛烈な労働環境は、朝鮮半島内であれ日本への動員であれ、本質的には同じである。

<第五章:空き地だらけの都市ー越境する人々ー>
羅津(ラジン)という都市が、朝鮮総督府の目論見にも関わらず、なかなか人口が増えず建設事業も停滞した事実。強権的な都市計画によって「満州」への接続都市として「軍港化」を図ったものの、新たに作られた「町」の借地借家料が高額なため多くの人が河川敷を占拠してバラック建設~それの強制排除に動く官憲~という悪循環。元々「漁民の町」だった羅津と、それを強引に軍港化しようという政策の食い違い。
そして、朝鮮半島北東部から中国へと繋がる「間島」地域での抗日武装闘争など植民地支配に抗する勢力の台頭。

・・・この論考を読みながら、私は時代も地域も違うが日本の京都・ウトロ地区での戦後の動きをも連想した。また、韓国ドラマ"Mr.Sunshine"も様々に思い起こした。実際、日韓併合前後の朝鮮の状況はあのドラマには本当によく描かれていたから。こうした、優秀な研究者による詳細な論考と映画・ドラマなど創作物で描かれる世界と。当時の歴史状況を総合的に把握するには多分どちらも大切なんだろう。

<付記1>今この国では、「日本の朝鮮植民地化は悪くなかった。いいこといっぱいしてやった。米も大幅に増産したし、学校もいっぱい建ててやったし、道路・鉄道・ダムなどインフラ整備もいっぱいしてやった」という「植民地近代化論」を撒き散らすサイトやYou-tubeチャンネルなどが溢れているが、そうした主張がいかに物事の一面だけを過大解釈して事実を歪めているか。米の増産はひとえに「日本本土の兵站としての役割を担わされた」だけで、当時、朝鮮在来の品種米ではなく、日本人の好みに合う日本の品種の栽培が半強制されたし、朝鮮総督府が建てた「普通学校」は民族教育を否定した「同化教育の場」でしかなく、民族の主体性を維持しようとした書堂(ソダン)・書院(ソウォン)といった教育施設は保護の対象になることもなく、やがて衰退していく。また、道路・鉄道建設は、ひとえに「満州・中国侵略に繋がる軍用、そして日本本土への資源・物資輸送に資する」ことが第一目的で、「朝鮮民衆のために」建設されたものではない。また町の建設・都市計画も「日本からの植民者のため」が第一義的な目的で、朝鮮人は日本の居住区には住めなかった地域も多い。そうした事実をどれだけの日本人がしっかり認識しているだろう?

<付記2>また、これは日本の植民地支配だけでなく、当時の帝国主義諸国の植民地支配全般に言えることだが、「支配する側=全て悪人&支配される側=全て善人」ではないのも事実。当然、支配される側の中には支配者側に阿って何かと自分の利権獲得に動く者も出てくるし、支配者側に「差別のシステムに抗おうとする者」もわずかながら出てくる。そして、支配者側が「被支配者の一部を利用して被支配者を支配する」のは、帝国主義支配の常套手段である。植民地支配下の朝鮮で、多くの土地が不在日本人地主や日本企業のものになったが、そうした「現場」で実地の監督者になった者に朝鮮人も少なくないだろう。「支配による受益者と被害者」は複層的で、決して一面的・画一的ではない。そして、「植民地支配の全体構造」の中で、ほとんどの日本人に深く埋め込まれた「朝鮮人への差別・蔑視の潜在的感情」は、今も厳然と引き継がれている。それも今の日本人がどれだけ深く認識していることだろうか?



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